私の職歴⑮ ~カンボジアから日本へ帰国~

帰国を決断


私自身には直接はなかったのですが、ずっと脅迫があったのは知ってました。
プノンペン本社の三浦社長へ、毎日のように脅迫の電話。
何も気にすることはないと、言ってましたが、
ある日、その標的が三浦社長の子供に。

子供の誘拐の脅迫。
私だけだったら、なんてことないのですが、
子供を出されたら、参ってしまいます。
もう疲れました。

私が辞めれば解決することです。

2002年3月31日退社しました。

完全に私の失敗です。負けました。
一部のカンボジア人との軋轢。そのたちの動かし方。

善い行いと信じて行動しても、結果がこうなれば負けを認めないといけません。

幸せとは


日本NGOの人権団体が、一年に一回、ある村の支援に団体で訪れます。
貧しい村に学校をたてて、物資を送り支援する団体。
日本の大手旅行会社からの手配で我社で行ってました。

ある日、その村の子供たちがアプサラダンスをするので、
昼食を団体で取る代わりに舞台を貸してほしいと交渉しました。
当日、そのレストランには一般のお客さんも利用してました。

私は、お騒がせしてご迷惑をおかけします。
と、他の一般の客に言いまわってたら、
その団体の一人のマダムが、
「この子たちは貧乏で、その子たちが一生懸命に練習してきたの。
 あなたボケっとしてないで、この子たちの為、
 見てる人たちにお金をもらってきなさい。」

私はその場から、そっと逃げました。
するとそのマダムがしつこく追いかけてきて、
「なにしてるの!!早くやりなさい!!」
と、鬼の様な形相でまくしたてられました。

すみません。私にはできません。
「あなたクビ!!」
「もうあなたの会社は利用しない!!」

偽善行為は、やりたい人がやればいいと思います。
それは否定はしません。
ただ、人に押し付けることは、私は拒否をします。

その方からみれば、貧乏なだけ。
幸せ、不幸は自分自身が思うことです。

私から見れば、何もストレスもなく、
食べるものは、年中温暖な地なので、そこら中に果物等あるので、
寒さで凍死することもありません。
その村の人たちの方が幸せに見えます。

よく日本の報道で、学校オープンばかりが、
クローズアップされてますが、
建物が過多になり、教師が不足してただの箱になっていることもあります。
そういう報道はどこもしませんし、
本当に必要な地道に人を育てることは、絵にならなく、感動を売りにできにくい。
派手に建てたその企業なりが、社会還元という売名になり、
絵になり、感動を売りにできやすい。

私も善い行いと信じて、押し付けていたのです。
ただ、今あの時に戻れても、
全く同じ行動をとっていると断言できます。

今回、カンボジアでは、失敗もあり、挫折しましたが、
立て直して、もう一度挑戦しようと決意しました。

チャンヤには、必ず戻ってくる。
一緒にやろうと、約束しました。

あれから16年たった今、カンボジアには戻れてない。
チャンヤとの約束がまだ実現してません。
今も、思うたびに胸が痛くなります。

退社の日、送別会を開いていただきました。
カンボジア人の酒は楽しく、笑い声ばかりになりますが、
チャンヤは怒っていて、今日は楽しもうと言ったら、
「なんで正しいことをやってきたのに、辞める羽目になった。
 みんな分かってない。よく騒げるな。」

一人でも、心から信用できる人と知り合った。
この人の為ならと今でも変わりません。
それだけでもカンボジアに来た意味がありました。

2-3日滞在して、シェムリアップを離れました。
まだアンコールワットを写真で撮ってない。
急いで離れる前日、アンコールワットで写真を撮りました。

アンコールワット

 

私の職歴⑧ ~カンボジアでの学びの時~

牛耳っていた、ナンバーワンガイドとの衝突で、
良くも悪くも空気が変わりました。

話は前後しますが、
ある日そのガイドが、怒って会社に帰ってきて、
「日本人はなってない!!」
聞いたら、お客さん(日本人観光客)を案内していて、レストランで食事の際、
そのお客さんが、レストランのウェイトレスに、
「今晩いくら?」と聞いたとのこと。

同じ日本人として、恥ずかしく申し訳ないと、言いながら聞いていると、
勝手にお互い交渉して、私を通さずに言い値で連れて帰った。
怒った理由はそこでした。

日本からも最も信用ある社員。
しかも日本の本社の社長まで、何かあったら、彼に相談しろだったので、
私がクビにされてもしょうがないと思ってました。

ただ、後悔は一切ありませんでした。
黙っていたら、ずっと誰もルールを守らないし、
滅茶苦茶のままで、私が来た意味がありません。

誰かがメスを入れ、膿みを出し切る必要がありました。
私が来る前も何人かの日本人が駐在されたと事ですが、
誰も何も言わずに、すぐに辞めてます。

カンボジアでは、議論することがありません。
自分の主張をし、感情的になったら喧嘩になり、
喧嘩をしたら、終わりなのです。

街中で欧米人がレストランを経営している場合、店前にライフルを持つ警備がいます。
カンボジア人を雇い、働きが悪く解雇したら、その日の内に報復があります。
強盗だけでなく、報復から守る為でもあります。

翌日、ナンバーワンガイドとの衝突の件を、プノンペンにいる三浦社長に報告しました。
「OK!この際、クビにしましょう。」
逆に会社にいる足を引っ張る、親戚数名を一掃しました。

三浦社長から、この時も、
「カンボジア人は正面から来ません。後ろから来ますので、気を付けて下さい。」
あっさりと言います。

その頃、まだ銃が出回っており、買おうと思えばすぐに買えました。
あるガイドが、森本さんも銃を持ったらの提案。
明日、プノンペンに行くので、買ってきます。

翌日、電話があり、今、市場にいて、USD150-しますが買いますか。
現実にそれを聞いて、ビビッてしまいました。
実際に銃を携帯し、何かあったら威嚇する。
それでも向かって来たら撃つ。
私にはできません。
断りました。

ただ、復讐で襲われる空気だったことは間違いありません。

衝突したガイドが中心になり、解雇された親戚が労働局に不当解雇と訴えました。
要はお金が欲しいだけ。労働局なるものが、あったことにも驚きました。

その頃から脅迫電話が毎日かかってくるように。
私は、カンボジア語が分からないので、全く影響ありません。
来るならいつでも来い!日本人を舐めるな!!
と、言って下さいと、スタッフにお願いしてました。

後日、カンボジアの英字新聞に私の記事がありました。
内容は、会社名を出して、悪い日本人が会社のお金を横領し、
正当な社員を不当解雇。
三浦社長の名前も実名で出され、その日本人のPuppetだ。
という記事でした。

私が来た時から、いろいろと教えていただいた、
社員のソカさんもこの時辞職しました。
同じ年で、身の回りの世話から、カンボジアの常識など教えていただきました。
お互い頑張ろうと良いパートナーと思ってました。
何かスタッフにいう時も、ソカさんを通して言うことも多く、
それがかなりのストレスだったようです。

ソカさん自身も、私の味方だと思われ、
もうこれ以上できません。
と辞めました。

ある日、朝、出社したら、
張り紙が至る所に何十枚も張ってあり、
私のパソコンのモニターにも貼ってました。
カンボジア語なので、全く分からず聞いたら、
森本は悪い奴。辞めさせろ。との内容。
書いた本人は、ダンポンというおっさん社員ガイド。

内戦以前(’97)から日本語ガイドをやっているベテランで社員。
彼の日本語は何を言っているのか1割も理解できないレベル。
お風呂嫌いで、そもそもカンボジアにはお風呂はありませんが、
日本人でも風呂嫌いは居ますが、レベルが違います。本物です。
ダンポンの周りは、ハエがいつも飛んでいました。

その時の社員のガイドは3人。
一人は衝突して辞めたガイド。
後の二人は誰が選んだのか、どう考えても低レベル。
あとは、専属で来ていただいているのが20名程。

ガイドにもかなりのレベルの差があります。
一日、ガイドの日当は、1日:$18-。
送迎のみ、半日とは別に計算します。

良いガイドでも悪いガイドでも日当は同じですが、
どの仕事に付けるかで、収入が変わります。
人数が多くなればなる程、土産屋等のコミッションが増え、収入が増えます。
良いガイドからグループ、団体をアサインし、
次に個人の高額パッケージツアー。
最後に格安の個人パッケージツアーです。

1か月の収入では、トップクラスのガイドで、
月/USD1,000-以上(コミッション、チップ合わせて)のガイドもいました。
日本だったら、一流プロ野球選手レベルです。

ダンポンは、今まで社員で、団体をメインにガイドをしていたのが、
私が格安の個人パッケージツアーをアサインしたので、
彼が怒って張り紙をして抗議したのです。

ダンポンを会社に呼んで、話ました。
激怒しており、カンボジア語の早口で、全く何を言っているのか分からず、
後でカンボジアスタッフに何を言ってたのと聞いたら、
カンボジア語ではなく、日本語じゃなかったのですか!?
その日をもって退職。

その後、どこの会社でも仕事はなく、
たまに日本の旅行会社の某激安ツアーでガイドをやっているということを聞きました。
その後、エイズになり、仕事は辞めたとのこと。

それまでの専属ガイドもかなりの数が離れていきました。
私が来たせいで、会社が混乱しているのは確かです。

ソカさんが辞め、誰にも相談する人がいなくなり、
これからは一人で考え、決断しなければなりません。

そんな時、私の人生を変えるほどの出会いがありました。

私の職歴③ ~読書との出会い~

読書のきっかけ


学生時代、働き出してからも、全くといっていいほど、読書をすることがなかったのですが、
本を読むきっかけがありました。

私のお客様で、大手出版社にお世話になっております。

その出会いが、飛び込み営業を始めた頃、何にも知らなく、
大手でもどこでも、躊躇せずに飛び込んでました。

そこの出版社は、仕事の付き合い上、大手旅行会社との取引があり、
どこの馬の骨かわからないものを使うわけありません。

その時の幹事は、管理職になったばかりで、初めての社内旅行の幹事。
失敗は許されません。
そんな時に私が何回もお伺いして、やっとお会いすることができました。

大手旅行会社との相見積もり。
大阪から新幹線・JRを利用し、高知駅から貸し切りバスで高知に宿泊するコース。
秋のハイシーズンの週末。
JR団体の席が、とれるかどうか分かりません。

どちらの旅行会社にするのか、決定の最終段階になり、
その方に、「本当にとれるのか?」と、聞かれ「絶対にとります!」と答えてしまいました。
根拠のない絶対はありません。
しかし、その時、「やってみないと分かりません」では、取れなかったかもしれません。

今、考えたら、「団体枠で取れない場合、1か月前発売の個札で対応し……
確約はできませんが、全力を尽くします!」としか言えません。
その時は、どんなことがあってもこの仕事を取ろうと。

その結果、決定しました。
が、新大阪―岡山 往復の新幹線、岡山―高知の往路は手配OK。
帰りの高知―岡山だけがが、いろんな手を尽くしても、どうしても取れません。
「絶対にとります!」と言ったので、会う顔がありません。
どうしよう。
その時は、本当に悩みました。正直逃げたかったです。

こんな時にいつも思い出すのが、母からの言葉です。

小学校6年生の時、空手道場に通ってました。
その道場が小学校で空手大会を催し、私も型を披露することになってました。

夏休みの土曜日で、友達とプールに遊びに行っててっきり忘れてました。
夕方帰ってきて、ハッと今日が空手大会だと気付きました。
ああどうしよう。
今から行っても終わっているかもしれない時間だし、
大勢の人の前で叱られるのは嫌だし、恥ずかしいし、怖い。

その時、母が「一回逃げたら、一生に逃げることになる。
 行って思いっきり叱られて、スッキリしてきなさい」

もう終わっていて、片付けをしているところに、正直に謝りました。
かなり怒られましたが、次に道場に行くときは堂々と行くことができました。
この体験が、今でも事あるごとに思い出されます。
どんな時でも、どんな状況でも逃げるなと自分に言い聞かせてます。

お客様に正直に状況を伝えに謝罪に行きました。
「精一杯手を尽くしたのですが、高知―岡山間のJRがお取りできなく、
嘘をつく形になりました。本当に申し訳ございません。」

高知~岡山間は、バスで移動することになりました。
その時は、かなり叱られました。

当日、もちろん私が添乗で同行。
絶対に皆さんを期待以上に喜ばせて、幹事さんに恩返しをする。

1993年 9月25日(土)‐26日(日) 高知旅行が無事に終わりました。
旅行中、話の流れで今日が私の誕生日と告げると、
宴会、二次会で皆さんにお祝いされ、一生忘れられない誕生日となりました。

その方も独断で、旅行会社をすんなり変えることはできません。
数年後に人づてで聞いたのですが、その時、支社長に
「面白い奴がいるので、そいつを何とか使わせて下さい。
何かあったら私が責任をとります。お願いします。」
そんなことがあったのです。

その方は、その10年後に支社長に昇進され、
社内旅行は、それから毎年、今でもお世話になっております。

ある日、その社員の方との話で、
「森本さん、作家は1ページ書くのに、どれだけの資料を用意するかわかりますか?
 両手一杯に入った紙袋、それ位の裏付け、確認が必要なのですよ!」
聞いて衝撃を受けました。

著者が全てをかけて、考えに考え、調べて裏付けをとり、責任もって世に出す。
また、人は一生うち、どれだけ人に会い話をできるのか。
ましてや、本音で話してくれるのは、ごくわずかで限度があります。
読書は、その著者と出会い、考え、本音を見聞することができます。

両手一杯の資料を1ページ1分で読むことができ、
1冊1,000円もかからない。昼食代より安い。
こんな素晴らしいものをなんで今まで気付かなかったのだろうと、
その日から書店に行き、興味のある本を読みあさりました。

その頃、平均したら1週間に一回のペースで添乗に出ていたので、
バス車内、旅館に到着し宴会前、宴会後は、かけがえない読書タイムになりました。

いろんなジャンルの本を読んでいるうちに、落合信彦さんと出会いました。

・狼たちへの伝言
・変わろうとしない奴はもういらない
・勇気の時代
・今がどん底 這い上がるしかないじゃないか
・崖っぷちで踊るヤツすくむヤツ逃げるヤツ  人生をもっと本気でプレイしたくなる本
・明日は、世界を
・「豚」の人生「人間」の人生
・「ケンカ」のすすめ 戦いの数だけチャンスがある
・10年後の自分が見えるヤツ 1年後の自分も見えないヤツ
・1度の失敗であきらめるヤツ 10度の成功でも満足しないヤツ

書店で題名だけをみても、鳥肌が立ち、目頭が熱くなりました。

人生は一度きり。
やらずに後悔するのは、あまりにももったいない。
やりたいと思ったことを、勇気をもって一歩踏み出し、精一杯やろう。
もし、それがダメだったとしても、精一杯やったら、学び経験になる。

いざ カンボジアへ!


1999年 一般旅行業務取扱主任者を取得。
仕事も遊びも何をやっても楽しかった時期。
目標であった旅行会社を開業準備できる。

完全歩合で、会社に無条件で年間かなりとられていて、
独立したら、逆に楽になりやっていけるどころが、さらに頑張って上を目指せる。

そんな時、カンボジア・プノンペン&タイ・バンコクへ仕事が決まり、
2000年2月、私も添乗で同行することになりました。

海外旅行では、海外のホテル、車、ガイド、食事等、
直接取引するのはお互いリスクがあります。
どんな大手旅行会社でも、ランドオペレーター(海外現地旅行会社)を通して手配します。

取引しているランドオペレーターにカンボジア&タイを手配しました。
そのランドオペレーターは、東南アジア専門。
本社は東京で、国内支社は、仙台、名古屋、大阪、福岡にあり、
海外では、タイ、ベトナム、ミャンマー、カンボジアに拠点があります。
主に日本人観光客を取り扱います。

その会社がカンボジアで日本人スタッフを求人してました。

大阪の営業の方に話を聞いたら、カンボジアはクレームだらけで、正直まいっている。

首都のプノンペンは、観光客はめったにくることはなく、
これから伸びるのは、アンコール遺跡の玄関口の街、シェムリアップ。

海外拠点は、グループ会社ですが、その国によって会社が変わります。
カンボジアの社長は、プノンペン在住で、なかなかシェムリアップに行くことができない。
目が届かないから、みんなが好き勝手にやって、お客さんからクレームだらけ。

カンボジアに添乗に行った際、カンボジアの社長に話を聞こう。

始めの1泊は、バンコク。
シャングリラに泊まり、タイ・味の素さんが手厚く接待。
アジアでは、「こんにちは」は、分からなくても「アジノモト」は通じます。

お客様は、食品会社の社長の集まりで、年一回海外旅行へ。
バンコクでの行程を無事に終え、カンボジア・プノンペンへ。
バンコクからの飛行時間は1時間。
この1時間で、タイムマシーンで50年戻る感があります。

プノンペンのホテルは、「シャラトン」。書き間違えではありません。
その名のとおり、設備、サービス、全てがシャラトン。
お客様は、シャングリラとのギャップ、プノンペンの雰囲気に終始圧倒され続けました。

昼食レストランで、カンボジアの三浦社長と初めてお会いし、
カンボジアの状況ついてお聞きしました。

それにしても黒く、日本人離れして、話し方もちょっと違う。
長く住んでいるとカンボジア人に似てくるのだと思っていたら、
カンボジア人で、ポルポト時代(1975-79年)に、命からがら、カンボジアを脱出し、
日本に難民申請し日本に移住。
10年間、横浜で働き、その間に日本国籍取得。

そこのランドオペレーター社長と、三浦さんと知り合い、
1991年カンボジアへ戻り、会社設立。
年齢は、私より一回り上です。

三浦社長は、カンボジアで、相当な権力を持っており、
将来、政治家を経て、次期首相候補とみんな噂してます。

そんな三浦社長から、
「クレームたくさんで、日本からいつも言われて頭が痛い。
森本さん、シェムリアップを立て直してくれませんか。」

その頃のカンボジアには何もなく、これから発展する国。
内戦も終わり、これから治安がよくなる。
旅行業でみたら、カンボジアは、間違いなく観光客が、急増加する。
日本からも近く、日本人も急増加する。
旅行業以外にもチャンスがあります。

カンボジアでやりたい!
今しかない!

帰りの飛行機の中で決心しました。