私の職歴⑩ ~新たな挑戦~

日本の美徳は海外では通じない?


今まで、クレームばかりなので、まずは信用を付ける時。

その場限りでの儲けではなく、
一生懸命、お客さんに喜んでもらうように、頑張ったら、
そのお客さんが、めぐりめぐって、仕事が増え、収入も増える。

これは日本人の美徳で、外国では通じません。
日本人は、仕事が生きがいで喜び。
ありがたく、今日も働かせていただいているのに対し、
欧米の考えでは、聖書にも書いているように、仕事は罰。

やはりカンボジアでも、仕事は生きがいとする考えはなく、
仕事が生きがいで喜びではなく、生きる為の手段。

日本の考えを、押し付ける事はしたくありません。
しかし、お取り扱う全てが日本人。

ガイドがもらう賃金は、一日いくらと決まっているので、
それ以上、稼ぐには、現地でオプションを売り、土産屋に連れて行くしかありません。
会社を通さず、勝手にドバイバーと行くので、
行程が狂い、お客さんは、決めてきたコースではないと、
日本に帰ってからクレーム。旅行業法の旅程補償(ペナルティ)の対象。

カンボジアスタッフは、日本の会社、営業がどれだけ頑張って、
仕事をとってきているのかわかるはずもありません。
また世界はカンボジアだけではありません。

日本人はお金持ちだから、簡単に旅行を行ける。
そんなことはありません。
あなたたちより何倍も働いて、倹約もして、
カンボジアに行くことが、どれだけ楽しみにしているか。

観光客は、ガイドでその国の印象が決まります。
ガイドは、毎日同じことの繰り返しで、どうしても慣れてきます。
お客さんの殆どが、初カンボジア。
慣れてはいけません。
この仕事で大事なのが、一期一会。

私の月給も$1,000-。
カンボジアに居れば、高給取りの部類ですが、日本では、初任給以下。
何とかしなけれなりません。

頑張ったら、頑張った分、仕事が増え、収入も増える。
日本の美徳は、言い聞かせるのではなく、私が実践してみせるしかありません。

新たな挑戦


第一にお客さんに喜んでいただく。
その為には、目先のお金を求めない。
これは長期になりますが、この仕事を生業とするなら、必至です。

遺跡の案内で、歴史物語は3分以内。
40℃にもなる所で、長々と歴史の話を聞くのは遺跡マニア以外は苦痛。

日本人が知りたいのは、何を食べているのか。
どんな所に暮らし、どういう生活をして、何が贅沢なのか。
あなたの夢はなにか。生活、考え方、日本をどう見ているか。
ネタが尽きることはありません。

長期の目標だけでは、ついてこないので、
オプショナルツアーを会社が完全管理。
会社に利益を入れ、ガイドも今まで以上の利益がないと動きません。
尚且つ、お客様に喜んでいただく。

オプショナルツアーをいろいろ考え実行しました。

●土産屋と契約し、コミッションの完全管理。

●シクロで遺跡観光
シクロ:輪タク(自転車タクシーのベトナム語)で、それがカンボジアにも普及。
遺跡を風を切って、歩く目線で遺跡を周る。
どんなに素晴らしいだろう。

シェムリアップにはシクロの文化がなく、カンボジアの首都のプノンペンにしか居ません。
三浦社長に相談し「OK!!」と、いっていただきました。
3日後には、プノンペンからシクロマンが10人、
自身のシクロで3日かけてシェムリアップにきました。
給料は、半日を月給$15-+1回1$。
寝泊りは会社の敷地で自身のシクロ。

みんないい人ばかりで、三浦社長は、よく短時間に良い人ばかり10人も選び、
すぐにシェムリアップへ来たのには驚きました。

その間に観光省に遺跡にシクロ乗り入れ許可を申請。
同時に当社での独占許可も通りました。
日本へ新企画「アンコール遺跡をシクロでめぐる」を発信。
現地オプションでも販売。

●シクロナイトツアー
夜、その頃、どこにも行くところがないので、シクロナイトツアーを開始。
シンガポールのトライショー(輪タク)ツアーをパクりました。
シンガポールでは、インド人街、オカマ人街などを通り、
最後にニュートンサーカスでのかき氷。

それに対してシェムリアップでは、
電気がない、真っ暗闇の街を楽しみ、最後にシェムリアプ川沿いの
ラッキーカフェで、フルーツシェイク。

●足つぼマッサージ店オープン
当時、シェムリアップに1軒もなかった足つぼマッサージ。
今では、シェムリアップで数多くありますが、これが1号店です。

三浦社長に、会社の1階を足つぼマッサージにしたい。(会社は新社屋に引っ越し)
と、相談しましたら「OK!!」
プノンペンにマッサージ師いないでしょうかと、聞いたら、
3日後に中国人のマッサージ師がシェムリアップにやってきました。

プノンペンの台湾系マフィア経営の「ベンツサウナ」から、中国人を引き抜き。
その方を指導者として、マッサージ師を募集。
いつもながら、三浦社長の行動力には、本当に凄いの一言。

マッサージ師は、完全歩合制で、1回/$1-。
多数募集があり、8人を確保。
その日から1週間、中国人先生の特訓が始まりました。

中国では、足つぼマッサージは医療で、国家資格が必要。
その為の医療学校を卒業し、資格を持ってないとできません。
私も足つぼは好きでよく行きます。
棒で押したりする所も多いですが、先生は、許しません。
全て指押し。

先生が施術したら、おしっこが我慢できなくなります。
体の毒素が尿ででているとのこと。

施術中、ここが痛いのは、どこが悪い等の身振り手振りも説明も取得。
1週間の特訓で、指の皮が擦り剥けても、みんな頑張りました。

私は、バンコクへ買い出し。
店で音楽を流し、良い雰囲気にしようと、
CDプレイヤー。BGMのCD。足つぼステッカーを購入。
椅子は、籐の椅子をシェムリアップで購入。

いよいよオープン。
一番目に三浦社長に受けてもらいました。
施術する前に、ズボンを膝上までめくったら、両足のスネ、ふくらはぎに、無数の傷跡。
直径1cmの穴が40個ほどありかなり深い傷跡。
聞くと、ポルポト時代に、無我夢中で逃げた際、ジャングルで、
パチンコ地雷を踏みました。
踏んだら、パチンコ玉のような物が、無数に飛び散る爆弾。
命からがら、カンボジアを脱出し日本へたどり着きました。
その後、日本国籍を取得。

カンボジアのポルポト時代を知っている世代は、
みんながみんな、そういう経験があります。

平和な日本で生まれ暮らしていたら、平和があたりまえ。
今の日本は、歴史上経験したことがない平和で、豊かな国。
この平和で豊かなのは、日本も先人たちが命がけで勝ち取ったもの。

人に対しての礼節、思いやり、世の為、人の為。
世間様にご迷惑をかけないよう。

こんな素晴らしい国は、世界どこにもありません。

足つぼマッサージは、ガイドがお客さんに販売すれば、一人当たり/$5-のコミッション。
ガイドにとっては、良いビジネス。

空港に張り付いて、私がお客さんにご挨拶。
滞在時の注意事項と、オプショナルツアーのご案内。
足つぼマッサージは、なかなか反響がよく、そこそこ売れました。

ただ、シクロツアーは、想像より大変でした。

アンコール遺跡は、アンコールワットだけでなく、
その周辺には200以上の遺跡があります。

アンコールトムという遺跡の中心にバイヨン遺跡があります。
その周りに遺跡が点在し、小回りルート、大回りルートがあり、
シクロは、その小回りルートを周ります。

通常車では、2時間で周れますが、シクロの場合、4時間かかります。
それもシクロを遺跡に待機させ、バスで行き乗り換えます。
道が舗装されてないところも多く、事故の心配もあり、
ガイドだけでは心細い。

また、シクロナイトツアーは、シンガポールと違い、市内の道はデコボコ。
雨季には、水たまり、ぬかるみ。
何より、電灯が殆どないので、殆どが真っ暗闇。
安全に運行する為、バイクでの先導が必要です。

先導の見本を見せる為、私が同行しました。
シクロツアーは、夕食レストランからホテルまで約2時間。
さらに、足つぼマッサージをプラスすれば、
終わるのが0:00を過ぎることもあります。

ガイドは翌朝、アンコールワット・サンライズが、殆ど入っているので4:00起き。

私が、毎晩やるはめになりました。
朝から夜遅い時は、深夜1:00まで。
もし、コミッションが私に入ってきたら、喜んで何時まででもやりますが、
ガイドに入り、私には一切入ってきません。

道筋を作って見せる。お金は後からついてくる。
これを信じて、毎晩深夜まで休みなく働き続けました。

●夜の社交場・大人のカラオケ店
これは会社は一切ノータッチ。

これが大騒動の始りでした。

シェムリアプ
2014年 市内中心のオールドマーケット公衆便所の看板。

私の職歴⑧ ~カンボジアでの学びの時~

牛耳っていた、ナンバーワンガイドとの衝突で、
良くも悪くも空気が変わりました。

話は前後しますが、
ある日そのガイドが、怒って会社に帰ってきて、
「日本人はなってない!!」
聞いたら、お客さん(日本人観光客)を案内していて、レストランで食事の際、
そのお客さんが、レストランのウェイトレスに、
「今晩いくら?」と聞いたとのこと。

同じ日本人として、恥ずかしく申し訳ないと、言いながら聞いていると、
勝手にお互い交渉して、私を通さずに言い値で連れて帰った。
怒った理由はそこでした。

日本からも最も信用ある社員。
しかも日本の本社の社長まで、何かあったら、彼に相談しろだったので、
私がクビにされてもしょうがないと思ってました。

ただ、後悔は一切ありませんでした。
黙っていたら、ずっと誰もルールを守らないし、
滅茶苦茶のままで、私が来た意味がありません。

誰かがメスを入れ、膿みを出し切る必要がありました。
私が来る前も何人かの日本人が駐在されたと事ですが、
誰も何も言わずに、すぐに辞めてます。

カンボジアでは、議論することがありません。
自分の主張をし、感情的になったら喧嘩になり、
喧嘩をしたら、終わりなのです。

街中で欧米人がレストランを経営している場合、店前にライフルを持つ警備がいます。
カンボジア人を雇い、働きが悪く解雇したら、その日の内に報復があります。
強盗だけでなく、報復から守る為でもあります。

翌日、ナンバーワンガイドとの衝突の件を、プノンペンにいる三浦社長に報告しました。
「OK!この際、クビにしましょう。」
逆に会社にいる足を引っ張る、親戚数名を一掃しました。

三浦社長から、この時も、
「カンボジア人は正面から来ません。後ろから来ますので、気を付けて下さい。」
あっさりと言います。

その頃、まだ銃が出回っており、買おうと思えばすぐに買えました。
あるガイドが、森本さんも銃を持ったらの提案。
明日、プノンペンに行くので、買ってきます。

翌日、電話があり、今、市場にいて、USD150-しますが買いますか。
現実にそれを聞いて、ビビッてしまいました。
実際に銃を携帯し、何かあったら威嚇する。
それでも向かって来たら撃つ。
私にはできません。
断りました。

ただ、復讐で襲われる空気だったことは間違いありません。

衝突したガイドが中心になり、解雇された親戚が労働局に不当解雇と訴えました。
要はお金が欲しいだけ。労働局なるものが、あったことにも驚きました。

その頃から脅迫電話が毎日かかってくるように。
私は、カンボジア語が分からないので、全く影響ありません。
来るならいつでも来い!日本人を舐めるな!!
と、言って下さいと、スタッフにお願いしてました。

後日、カンボジアの英字新聞に私の記事がありました。
内容は、会社名を出して、悪い日本人が会社のお金を横領し、
正当な社員を不当解雇。
三浦社長の名前も実名で出され、その日本人のPuppetだ。
という記事でした。

私が来た時から、いろいろと教えていただいた、
社員のソカさんもこの時辞職しました。
同じ年で、身の回りの世話から、カンボジアの常識など教えていただきました。
お互い頑張ろうと良いパートナーと思ってました。
何かスタッフにいう時も、ソカさんを通して言うことも多く、
それがかなりのストレスだったようです。

ソカさん自身も、私の味方だと思われ、
もうこれ以上できません。
と辞めました。

ある日、朝、出社したら、
張り紙が至る所に何十枚も張ってあり、
私のパソコンのモニターにも貼ってました。
カンボジア語なので、全く分からず聞いたら、
森本は悪い奴。辞めさせろ。との内容。
書いた本人は、ダンポンというおっさん社員ガイド。

内戦以前(’97)から日本語ガイドをやっているベテランで社員。
彼の日本語は何を言っているのか1割も理解できないレベル。
お風呂嫌いで、そもそもカンボジアにはお風呂はありませんが、
日本人でも風呂嫌いは居ますが、レベルが違います。本物です。
ダンポンの周りは、ハエがいつも飛んでいました。

その時の社員のガイドは3人。
一人は衝突して辞めたガイド。
後の二人は誰が選んだのか、どう考えても低レベル。
あとは、専属で来ていただいているのが20名程。

ガイドにもかなりのレベルの差があります。
一日、ガイドの日当は、1日:$18-。
送迎のみ、半日とは別に計算します。

良いガイドでも悪いガイドでも日当は同じですが、
どの仕事に付けるかで、収入が変わります。
人数が多くなればなる程、土産屋等のコミッションが増え、収入が増えます。
良いガイドからグループ、団体をアサインし、
次に個人の高額パッケージツアー。
最後に格安の個人パッケージツアーです。

1か月の収入では、トップクラスのガイドで、
月/USD1,000-以上(コミッション、チップ合わせて)のガイドもいました。
日本だったら、一流プロ野球選手レベルです。

ダンポンは、今まで社員で、団体をメインにガイドをしていたのが、
私が格安の個人パッケージツアーをアサインしたので、
彼が怒って張り紙をして抗議したのです。

ダンポンを会社に呼んで、話ました。
激怒しており、カンボジア語の早口で、全く何を言っているのか分からず、
後でカンボジアスタッフに何を言ってたのと聞いたら、
カンボジア語ではなく、日本語じゃなかったのですか!?
その日をもって退職。

その後、どこの会社でも仕事はなく、
たまに日本の旅行会社の某激安ツアーでガイドをやっているということを聞きました。
その後、エイズになり、仕事は辞めたとのこと。

それまでの専属ガイドもかなりの数が離れていきました。
私が来たせいで、会社が混乱しているのは確かです。

ソカさんが辞め、誰にも相談する人がいなくなり、
これからは一人で考え、決断しなければなりません。

そんな時、私の人生を変えるほどの出会いがありました。

私の職歴⑤ ~カンボジアでの生活~

カンボジアの食事


始めのうちは、まずは全てに慣れようと、カンボジアスタッフと毎回食事も行きました。
行った時が4月で、カンボジアでは一番暑い時期。日中40℃を超えます。
暑さで食欲もなくなってくるのもありますが、食事が合わなかった。

私は、好き嫌いは一切なく、何でも美味しく食べれます。
お米、味噌汁がないとダメとか、一切ないので、
海外でもどこでも美味しくいただいてます。

スタッフと行く場合、地元のローカル店。
たまにゴキブリもでて、日本より一回り大きく、動きがトロい。私は大のゴキブリ嫌い。
テーブルに上がってきても、一緒にいたスタッフは何も知らん顔。
店員に何とかしてと、言っても、何を言っているのこの人。みたいな態度。

料理は、中華料理のように、何種類か注文して、取り分けず、みんなでつついて食べます。
主食は米。インディカ米(タイ米)。
パッサパサで始めは慣れなかったですが、慣れてきて、汁物のおかずと混ぜてたべたら、
なかなかいけます。
逆にカンボジア人が日本米を食べると、嫌な顔をします。
グジャグジャで気持ち悪いとのことです。

スープも大皿に、みんなでいただきます。
スプーンをそのまま口に運び、また、スープにスプーンを入れ、その繰り返し。
だんだん濁ってきて、米粒、おかずのカスも浮き出してきて、
いろんな味を楽しむことができます。
スープの具がなまずなど。ナマズは泥を食べているような味。

日本の鍋は、さすがにそのまま口に運ぶことはないけど、
外国人にはそういう感じでみられているのでしょうか。

昼は向かいのローカルレストランによく行くようになって、
焼きそば、チャーハンは間違いないので、よく注文してましたが、
毎回、ハエが1匹は入ってます。
いちいち言っても相手にされないので、避けて食べます。

ある日、その店で焼きそばを注文し、食べてたら、ハエが1匹、麺に絡んでいる。
いつものことなので、スルー。
2匹目発見。まぁ、しょうがないか。
3匹目には大き目のハエ。我慢の限界。
二度と行かなかったです。

あまり食べれなくなり、夜はスイーツを食べてました。
スイーツといえばオシャレで美味しそうなイメージですが、
裸のおやじがリヤカーで引いている屋台。
練乳かき氷、もち米を甘くかき氷と一緒に。暑いのでその位しか食べれません。

ある日の夕食、一人でスイーツを食べに行こうと、
部屋のシャワーを浴びて行きました。
もちろん水シャワー。
あるだけ良い方で普通はカメに雨水を貯めて、生活用水にします。
下水などのインフラがなく、シャワー水は外に流します。

その日は、排水の流れが悪く、キャップを開けたまま、スイーツへ。
15分後帰宅し、部屋の電気を付けたら、部屋の模様が変わっている。
一見オシャレな空間になっており、いろんな模様がついてます。
よくみたら、ゴキブリが何十匹も排水口から這い上がり、
部屋の壁に引っ付いていました。

生活用品は、オールドマーケットという市場に売ってます。
肉、魚、野菜、衣類、日用品。
入ったとたん、独特のなんともいえない臭い。
また、市場内に風が通らないので、異常に暑く、臭いがこもります。

その頃、日本から来たお客さんに、ここの肉はすごく清潔で安心してお召し上がりいただけます。
ご覧のようにハエのバリアが、この肉を雑菌から守ってくれています。

日用品は、その頃、タイ、ベトナムからの輸入。
タイのインスタントラーメンくらいはあるのですが、
チョコレートなどなく、食べたくても食べれなかった。

シェムリアップ川沿いにカフェに行くようになりました。
そこは観光客の外人が利用が多く、コーヒー、スパゲッティがあります。
店の前にはライフルをもった軍人が警備。安心して食事を楽しめます。
スパゲッティは1種類のみ。カルボナーラ。
見よう見まねで作っているので、毎回味が変わり、日替わり定食感覚。
毎回いろんな味を楽しめましたが、美味しいと思ったことは一度もありませんでした。

Wバーガーができました。
マクドナルドのMをひっくり返しただけの看板。
その看板も赤背景の黄色い文字で見よう見まね。
キンキラの装飾をし、外からは厨房が丸見え。
本物のマクドナルドはおろか、ハンバーガー自体この街にないので、
全ては想像。
裸のオヤジが心を込めて調理しているのが嫌でも見れます。
人が入っているところをを見たことがありません。
結局、一回も店内に入る勇気がなかったです。

部屋にテレビを付けようと、電気屋さんへ。
もちろんイメージの家電量販店ではなく、家に数台テレビを置いているだけの電気屋さんです。
10歳位の女の子が店番をしていて、
テレビは信用のブランド・自称日本製・自称新品「AKIRA」を購入。
延長コードの既製品はもちろんなく、何メートルとその女の子に作ってもらいました。

テレビチャンネルは100近くあり、
みなさん電波を違法にとっているので無料で、世界のテレビ番組を楽しめます。
テレビも購入し、これでカンボジアライフを満喫することができます。

その夜、綺麗な花火の夢をみました。
子供の頃に見たスターマインにも似た花火。

朝起きると、延長コードから燃え、信頼のブランド「AKIRA」も焦げ付いていました。
テレビの電源もつくどころではなく、完全に壊れて廃棄処分。
夢は現実だったのです。
部屋の床は、燃えない素材で火事にならなくてよかった。

移動手段はバイク。
よく一人で西バライ(バイクで15分の人口池)へ、夕日に向かって叫びに行ってました。
そこの夕日は絶景です。
「バカヤロー!!」

私の職歴④ ~カンボジア生活のはじまり~

シェムリアップ到着


カンボジア・プノンペンからの飛行機の中でカンボジアでやる決心をしました。
4/01からスタート。
ちょうど、一か月後に設定しました。

今までお世話になったお客様に説明しにまわりました。
散々お世話になっていたので、本当に申し訳ない気持ち、
また、今まで本当にありがとうございましたと、感謝を伝えました。

それから、出発までの一ヵ月、毎日、送別会を開いていただきました。
一ヵ月のうち、日曜日も開いていただき、送別会がない日は1日のみ。
これは、私の誇りです。

社長から、私のお客様を引き継ぎをお願いされ、快く引き継ぎました。

2000年3月25日、日本を出発。
友達も見送りに、車4台で関西空港へ。

4/01からプノンペンなので、それまで、母と二人で旅行しました。
シンガポール、タイ・パタヤ、バンコク。

3/31 バンコク・ドンムアン空港内でお別れ。
母は日本へ。私はカンボジアへ。
母が1時間程、先に出発だったので、ゲートへお見送り。
ファイナルコールで、いよいよお別れの時、母が号泣。
私までつられて、号泣してしまいました。
その時、手紙をいただき、今でも大事に持ってます。

2000年 4/01 初出勤。
1週間程、プノンペン本社で社長の下で請求書を作りなどの業務をした後、
いよいよ私の仕事場である、シェムリアップへ。
国内線で約40分。

その時が初めてのシェムリアップ。
飛行機上空から見るシェムリアプは、木、田んぼがあるだけで、
プノンペンの雑踏とは、真逆です。

シェムリアプ空港に着いた瞬間、これが空港!?
空港内はエアコンはなく暑い!!
公衆電話もなく、売店もない。
そんな空港なので、もちろんターンテーブルもない。
荷物はリヤカーで運び、窓から手渡し。
空港をでたらバイクタクシーが群がり。

空港からオフィスまで、舗装なしの道を約15分。
プノンペンとは違い、どこまでも高く広がる青空。
南国特有の椰子の木。

着いたオフィスは街の中心からバイクで約5分。
私の自宅は、オフィス内の一部屋。
ドア一つで仕事場。
全体的に暗く、オフィスから話し声が聞こえ、
仕事が終わってもカンボジアスタッフも何かあったらすぐにノックされ、入ってきて、
お客さんで来ている、日本人観光客も部屋に入ってくる始末。

防犯上、窓には鉄格子。収容されているような感。
頑丈な鉄格子を付けていても、窓側には枕を置かないよう注意されました。

雇用契約(現地採用)
月の給料:USD1,000- 日本円で11~12万円
家賃は会社負担
土曜日は半日勤務、日曜日休み
年一回、日本への往復航空券

日本からしてみれば、安いですが、
物価の安いカンボジアでは、十分に暮らせるレベルとの事。
こればかりは、暮らしてみないと分かりません。

私の職歴③ ~読書との出会い~

読書のきっかけ


学生時代、働き出してからも、全くといっていいほど、読書をすることがなかったのですが、
本を読むきっかけがありました。

私のお客様で、大手出版社にお世話になっております。

その出会いが、飛び込み営業を始めた頃、何にも知らなく、
大手でもどこでも、躊躇せずに飛び込んでました。

そこの出版社は、仕事の付き合い上、大手旅行会社との取引があり、
どこの馬の骨かわからないものを使うわけありません。

その時の幹事は、管理職になったばかりで、初めての社内旅行の幹事。
失敗は許されません。
そんな時に私が何回もお伺いして、やっとお会いすることができました。

大手旅行会社との相見積もり。
大阪から新幹線・JRを利用し、高知駅から貸し切りバスで高知に宿泊するコース。
秋のハイシーズンの週末。
JR団体の席が、とれるかどうか分かりません。

どちらの旅行会社にするのか、決定の最終段階になり、
その方に、「本当にとれるのか?」と、聞かれ「絶対にとります!」と答えてしまいました。
根拠のない絶対はありません。
しかし、その時、「やってみないと分かりません」では、取れなかったかもしれません。

今、考えたら、「団体枠で取れない場合、1か月前発売の個札で対応し……
確約はできませんが、全力を尽くします!」としか言えません。
その時は、どんなことがあってもこの仕事を取ろうと。

その結果、決定しました。
が、新大阪―岡山 往復の新幹線、岡山―高知の往路は手配OK。
帰りの高知―岡山だけがが、いろんな手を尽くしても、どうしても取れません。
「絶対にとります!」と言ったので、会う顔がありません。
どうしよう。
その時は、本当に悩みました。正直逃げたかったです。

こんな時にいつも思い出すのが、母からの言葉です。

小学校6年生の時、空手道場に通ってました。
その道場が小学校で空手大会を催し、私も型を披露することになってました。

夏休みの土曜日で、友達とプールに遊びに行っててっきり忘れてました。
夕方帰ってきて、ハッと今日が空手大会だと気付きました。
ああどうしよう。
今から行っても終わっているかもしれない時間だし、
大勢の人の前で叱られるのは嫌だし、恥ずかしいし、怖い。

その時、母が「一回逃げたら、一生に逃げることになる。
 行って思いっきり叱られて、スッキリしてきなさい」

もう終わっていて、片付けをしているところに、正直に謝りました。
かなり怒られましたが、次に道場に行くときは堂々と行くことができました。
この体験が、今でも事あるごとに思い出されます。
どんな時でも、どんな状況でも逃げるなと自分に言い聞かせてます。

お客様に正直に状況を伝えに謝罪に行きました。
「精一杯手を尽くしたのですが、高知―岡山間のJRがお取りできなく、
嘘をつく形になりました。本当に申し訳ございません。」

高知~岡山間は、バスで移動することになりました。
その時は、かなり叱られました。

当日、もちろん私が添乗で同行。
絶対に皆さんを期待以上に喜ばせて、幹事さんに恩返しをする。

1993年 9月25日(土)‐26日(日) 高知旅行が無事に終わりました。
旅行中、話の流れで今日が私の誕生日と告げると、
宴会、二次会で皆さんにお祝いされ、一生忘れられない誕生日となりました。

その方も独断で、旅行会社をすんなり変えることはできません。
数年後に人づてで聞いたのですが、その時、支社長に
「面白い奴がいるので、そいつを何とか使わせて下さい。
何かあったら私が責任をとります。お願いします。」
そんなことがあったのです。

その方は、その10年後に支社長に昇進され、
社内旅行は、それから毎年、今でもお世話になっております。

ある日、その社員の方との話で、
「森本さん、作家は1ページ書くのに、どれだけの資料を用意するかわかりますか?
 両手一杯に入った紙袋、それ位の裏付け、確認が必要なのですよ!」
聞いて衝撃を受けました。

著者が全てをかけて、考えに考え、調べて裏付けをとり、責任もって世に出す。
また、人は一生うち、どれだけ人に会い話をできるのか。
ましてや、本音で話してくれるのは、ごくわずかで限度があります。
読書は、その著者と出会い、考え、本音を見聞することができます。

両手一杯の資料を1ページ1分で読むことができ、
1冊1,000円もかからない。昼食代より安い。
こんな素晴らしいものをなんで今まで気付かなかったのだろうと、
その日から書店に行き、興味のある本を読みあさりました。

その頃、平均したら1週間に一回のペースで添乗に出ていたので、
バス車内、旅館に到着し宴会前、宴会後は、かけがえない読書タイムになりました。

いろんなジャンルの本を読んでいるうちに、落合信彦さんと出会いました。

・狼たちへの伝言
・変わろうとしない奴はもういらない
・勇気の時代
・今がどん底 這い上がるしかないじゃないか
・崖っぷちで踊るヤツすくむヤツ逃げるヤツ  人生をもっと本気でプレイしたくなる本
・明日は、世界を
・「豚」の人生「人間」の人生
・「ケンカ」のすすめ 戦いの数だけチャンスがある
・10年後の自分が見えるヤツ 1年後の自分も見えないヤツ
・1度の失敗であきらめるヤツ 10度の成功でも満足しないヤツ

書店で題名だけをみても、鳥肌が立ち、目頭が熱くなりました。

人生は一度きり。
やらずに後悔するのは、あまりにももったいない。
やりたいと思ったことを、勇気をもって一歩踏み出し、精一杯やろう。
もし、それがダメだったとしても、精一杯やったら、学び経験になる。

いざ カンボジアへ!


1999年 一般旅行業務取扱主任者を取得。
仕事も遊びも何をやっても楽しかった時期。
目標であった旅行会社を開業準備できる。

完全歩合で、会社に無条件で年間かなりとられていて、
独立したら、逆に楽になりやっていけるどころが、さらに頑張って上を目指せる。

そんな時、カンボジア・プノンペン&タイ・バンコクへ仕事が決まり、
2000年2月、私も添乗で同行することになりました。

海外旅行では、海外のホテル、車、ガイド、食事等、
直接取引するのはお互いリスクがあります。
どんな大手旅行会社でも、ランドオペレーター(海外現地旅行会社)を通して手配します。

取引しているランドオペレーターにカンボジア&タイを手配しました。
そのランドオペレーターは、東南アジア専門。
本社は東京で、国内支社は、仙台、名古屋、大阪、福岡にあり、
海外では、タイ、ベトナム、ミャンマー、カンボジアに拠点があります。
主に日本人観光客を取り扱います。

その会社がカンボジアで日本人スタッフを求人してました。

大阪の営業の方に話を聞いたら、カンボジアはクレームだらけで、正直まいっている。

首都のプノンペンは、観光客はめったにくることはなく、
これから伸びるのは、アンコール遺跡の玄関口の街、シェムリアップ。

海外拠点は、グループ会社ですが、その国によって会社が変わります。
カンボジアの社長は、プノンペン在住で、なかなかシェムリアップに行くことができない。
目が届かないから、みんなが好き勝手にやって、お客さんからクレームだらけ。

カンボジアに添乗に行った際、カンボジアの社長に話を聞こう。

始めの1泊は、バンコク。
シャングリラに泊まり、タイ・味の素さんが手厚く接待。
アジアでは、「こんにちは」は、分からなくても「アジノモト」は通じます。

お客様は、食品会社の社長の集まりで、年一回海外旅行へ。
バンコクでの行程を無事に終え、カンボジア・プノンペンへ。
バンコクからの飛行時間は1時間。
この1時間で、タイムマシーンで50年戻る感があります。

プノンペンのホテルは、「シャラトン」。書き間違えではありません。
その名のとおり、設備、サービス、全てがシャラトン。
お客様は、シャングリラとのギャップ、プノンペンの雰囲気に終始圧倒され続けました。

昼食レストランで、カンボジアの三浦社長と初めてお会いし、
カンボジアの状況ついてお聞きしました。

それにしても黒く、日本人離れして、話し方もちょっと違う。
長く住んでいるとカンボジア人に似てくるのだと思っていたら、
カンボジア人で、ポルポト時代(1975-79年)に、命からがら、カンボジアを脱出し、
日本に難民申請し日本に移住。
10年間、横浜で働き、その間に日本国籍取得。

そこのランドオペレーター社長と、三浦さんと知り合い、
1991年カンボジアへ戻り、会社設立。
年齢は、私より一回り上です。

三浦社長は、カンボジアで、相当な権力を持っており、
将来、政治家を経て、次期首相候補とみんな噂してます。

そんな三浦社長から、
「クレームたくさんで、日本からいつも言われて頭が痛い。
森本さん、シェムリアップを立て直してくれませんか。」

その頃のカンボジアには何もなく、これから発展する国。
内戦も終わり、これから治安がよくなる。
旅行業でみたら、カンボジアは、間違いなく観光客が、急増加する。
日本からも近く、日本人も急増加する。
旅行業以外にもチャンスがあります。

カンボジアでやりたい!
今しかない!

帰りの飛行機の中で決心しました。