バンコクからマカオ経由で帰国

プロ中のプロ タクシードライバー
バンコク レンブラント・スイーツに5泊。
日本に帰国します。

1/10 バンコク・ドンムアン空港22:45発。
ドンムアン空港近く(車で約15分)のホテルを1泊とりました。

ホテルチェックアウト後、Grabでタクシーを呼ぼうとしたら、
ホテルエントランスにタクシーが入って来ました。

60代半ばと思われるガタイのいい、強面の男性の運転手。
なぜか乗客は乗っていません。

ホテル詳細画面をスマホを見せようとしたら、
そんなの見なくてもいいと、見ようとしません。
ホテルは「ザ ジャーニー ホテル ラクシー」
ドンムアン空港の近くとホテル名だけて理解しました。

今はカーナビ、グーグルマップなどそんなものに頼らなくてもすべて頭に入っている。
この人に、道を指示するのは恐れ多く失礼だ。
凄いプロのドライバーだと感動し、尊敬しました。

距離があるのでメーター利用はダメで、高速代込み400バーツ。
Grabで事前に調べていたら、同じような代金だったので乗車。

スクンビット(大通り)まで混みあっていましたが、
クラクションを鳴らしごぼう抜き逆走で大通りまででました。

途中、何か所かの交差点でもクラクションを鳴らし強引に追い抜いていきます。
このドライバー、プロ中のプロだと確信しました。
逆走しても変な安心感があり、怖いとは思いません。

途中の看板でホテルの地名「Laksi」(ラクシー)があり、
それを無視してドバイバーは真っ直ぐ進みます。
きっと近道を知っているんだと我慢してましたが、5分経っても左折しようとしません。
しびれを切らして、恐る恐る「ラクシー」は左にあるのでは!?と伝えました。

何の返事がなく、「大丈夫だ。安心しろ」みたいなジャスチャー。
プロ中のプロの機嫌を損ねてはいけない。
何か秘策あるはずだ。

もう目の前にはドンムアン空港。
タクシーはドンムアン空港目の前の「アマリ・ドンムアン」のエントランスで停車。
ここで初めて気づきました。
このドライバー、何もわかっちゃいなかった。

アマリではない!「ザ ジャーニー ホテル ラクシー」!
さっきラクシーは左と言ったでしょう!!
ちゃんとスマホのホテル住所を見てください!
そのドライバーは老眼でスマホの小さな文字が一切見れなかったのです。
アマリのドアマンに私から事情を説明し、ドアマンからドライバーへ道案内。

タイのタクシーでは、ほぼスマホをカーナビに使っていますが、
そのドライバーはスマホを持っていません。

プロ中のプロではなく、ただ老眼で字が見えなく、
エアポートホテルの単語だけでアマリ(大型空港ホテル)まで来たのです。
よくよく思い返せば、目もあまりよくなく、強引な運転になっていただけ。

立場は完全に逆転しました。大通りを戻ります。
「分からなかったら、人に道を聞いてください!」。
信号待ちの時に、バイクタクシーのあの人に聞いてくださいと、
お願いしたのですが、プライドが邪魔をするのか聞きに行きません。

仕方ないので私がスマホでホテルの詳細を提示して聞きます。
まっすぐ行ってどっかで右折みたいなことを言ってます。
そのどっかが分からないのでドライバーに引き継ぎました。

ドライバーとバイタクとの話し合いで、お金を払って先導するとなったみたいです。
タイ人同士で話しているところをみて、
タクシードライバーは耳が遠いというのを初めて知りました。

バイクタクシー先導で補助的に私のスマホでも誘導できる。

私も道を指示します。と伝えたら、
何を思ったのか先導のバイクを追い抜き、カーレースさながらスピード全開で追い払います。
信号で止まり、遅れてバイタクがドライバーに横付け。
口論になり、ドライバーが60バーツをバイタクに渡しました。
バイタクが怒り、100バーツ払え!と怒鳴っています。
それを無視して急発進。
バイタクは追いかけてきます。
それでも無視してタクシーは走り続けます。

その後、そのバイタクはタクシーの車体をおもいっきり蹴ってどっか行きました。
数分後、バイタクの仲間と思われる人が、
大声でタクシーの車体を蹴って、どっかに行きました。

ようやくスマホのナビでホテルに到着。
ドライバーは、かなりの落ち込みようで下を向いたままタクシーから出てきません。
立てないくらいショックを受けていたように見えました。

ドライバーはバイタクの先導60バーツを私に請求したら、絶対に払いませんが、
何も言ってこなかったので、400バーツと60バーツを渡しました。

50分のところが、2時間かかりました。
事故がなかっただけよかったです。

ライドシェア タクシーアプリは、これからもっと普及していきます。

ドンムアン空港近く ザ ジャーニー ホテル ラクシー
ドンムアン空港近くのホテルといえば、空港連絡通路がある「アマリ・ドンムアン」が
便利ですが、今回夜のフライトまで5時間の利用なので、
休憩、シャワーができればよく、できるだけ安いホテルが希望です。

「ザ ジャーニー ホテル ラクシー」
客室数:114室 建築年: 2016年
スタンダードツインルーム 28㎡

周辺は住宅街。近くにコンビニがあり、レストランも数か所。
格安のホテルですが、フィットネスセンター、レストランも。
何より清潔なのが良いです。

素朴な街の雰囲気で、ロケーションはバンコク市内より離れていますが、
それを含めても、バンコクで泊まったホテルよりも、
ここで泊まった方がよかったかも。

ドンムアン空港よりマカオ経由で帰国へ
ホテルの周辺を散策して、食事、休憩。
5時間の滞在でしたが快適に過ごすことができました。

ドンムアン空港までタクシー約15分。

帰国便のスケジュール NX:マカオ航空
1/10 NX935 ドンムアン22:45/マカオ02:30+1 所要2時間45分
1/11 NX856 マカオ08:15/関西12:45 所要3時間30分

バンコク・ドンムアン空港内は、レストラン、フードコート、
制限エリア内も免税店などリニューアル。

マカオ空港02:30着
乗り継ぎのセキュリティを通りゲートへ。
中国でのセキュリティはライター持ち込み禁止で没収されます。

深夜のマカオ空港乗り継ぎで5時間45分。
熟睡する時間にこれは辛い。
免税店、レストラン、店舗は19:00で閉店していて自動販売機のみ。

深夜乗り継ぎの乗客は少なく、空港内はガランとしています。
かなりの数の待合椅子があり、仮眠をとるには問題ありません。
その椅子が手すりがあるのと、ないのがあり、
手すりがないのは横になることができます。

横になっても背中が痛くなかなか寝れません。
一番つらかったのはガンガンの冷房。
マカオは20℃前後の気温ですが、湿気が強いのか、空港内は強烈冷房。
まだ冷房が弱く、人がいない所を見つけて、地べたで2時間ほど仮眠をとりました。

7時前に店舗が空き、始発便のアナウンス。
08:15発 帰国の途へ
12:15 関西空港到着

旅の目的
今回の旅の目的は、上倉さんに手を合わせに行くこと。
そして、お別れの会を取り仕切っていただいたLIDAさんへのお礼。
2021年5月からかなり時間が経ってしまいましたが、やっと行くことができました。

よく一緒にポイペト、アランヤプラテートに週末1泊で行きました。
ポイペトのカジノホテルに泊まり、スロットを隣同士で、夜通し日本の歌を歌いながら。
歌詞がサビの部分しかわからないので、二人して殆どがハミング。
何をやるにも楽しかった。
かけがえない思い出です。

チャンヤとの会話で、
直前にあるガイドに$200貸してほしいと。
そのガイドは、ロックダウン真っ最中で全く仕事がなく断りました。
今でも「こうなったのは私のせいです」と。

何で私に言ってくれなかったのか。
「本当に信頼できる人に、そんな恥ずかしいこと言えないですよ」
と、チャンヤは言いました。

私の職歴⑯ ~さようならカンボジア~

インドシナ半島を横断


2002年 3月31日 カンボジアでの会社を正式に退社しました。

シェムリアップから離れる出発の朝、複雑な思いでした。
敗北し、挫折感。
何をやる為にカンボジアに来たのか。
何がやりたかったのか。

日本に帰って、以前からの夢であった、旅行会社を立ち上げる決意。
いつかカンボジアで戻ってくる。
そして、カンボジアでランドオペレーターをやりたい。
私は日本で営業し、カンボジアへ日本のお客様を送客したい。

日本に帰ったら、当分、旅には出れなくなり、
これまでの事の反省、これからの事を考えるのに、
インドシナ半島を旅をしてから、日本に帰国することに。

2年ちょっとでしたが、たくさんの人と出会い。
いろいろありましたが、たくさんの人たちに支えていただきました。
離れる前も、たくさんの人が会いに来てくれました。

シェムリアプから陸路で、カンボジアとタイとの国境の町、ポイペトへ。
ポイペトで数泊し、カンボジア・タイの国境へ。
ここでカンボジアとはお別れとなったら、感傷的になりました。

そしてバスでバンコクからパタヤへ。
パタヤで10日程滞在し、東北部イーサン地方の町を滞在しながら北上。
ナコーンラシャシマー~コーンケーン~ウドーンターニー~ノーンカーイ。
長距離バスで、気ままに移動。
気に入った町があれば、そのまま数泊滞在。

タイ・ノーンカーイからラオスへ入国。
ラオスの首都、ヴィエンチャン数泊滞在。
メコン川しかなく、その先を行くことに。
ラオスを周るか、ベトナムに入るか考えましたが、
ベトナムの方が魅力的で、ハノイ~ホーチミンを陸路で周ることにしました。
メコン川○ラオス・ビエンチャン メコンの夕陽

ラオス・ヴィエンチャンからベトナム・ハノイまで、飛行機以外では、
その当時、バックパッカーが利用するツアーバスしかなく、
そのバスを利用。これが地獄でした。

所要24時間でびっくりするような安い金額でした。
$5-とかその位だったような。
小型バス(コースター20人乗り)で、若い欧米人バックパッカーと一緒にハノイへ。
これがギュウギュウ詰めで、そのバックパッカー全員が行儀が悪く、
車内で騒ぎ、マリファナを吸うはで地獄でした。

やはり値段は、時間、サービス、快適さに比例します。
もう二度と乗りません。

陸路でベトナムに入国しハノイへ。
ハノイで数泊し、ベトナムを北から南へ1,800kmをバスで移動。
ハノイ~ハロン~フエ~ダナン~ホイアン~ニャチャン~ダラット~
ファンティエット~ホーチミン。

バスで停車する際、面白そうな町であれば、バスを下車して、そのまま滞在。
飽きてきたら、バスに乗り次の町へ。

自分で勝手に決めたゴールはベトナム・ホーチミン。
カンボジアを出てから、2か月が過ぎてました。

ゴールの地、ホーチミンで数泊滞在し、送別会を開いていただきました。
最後まで会社のベトナム(日本人)の皆様にお世話になりました。

○写真は、その前に行ったミャンマー・ヤンゴン
○タイ・ピピ島 ○左は、ラオス・ビエンチャン。右は、ホーチミン。

私の職歴③ ~読書との出会い~

読書のきっかけ


学生時代、働き出してからも、全くといっていいほど、読書をすることがなかったのですが、
本を読むきっかけがありました。

私のお客様で、大手出版社にお世話になっております。

その出会いが、飛び込み営業を始めた頃、何にも知らなく、
大手でもどこでも、躊躇せずに飛び込んでました。

そこの出版社は、仕事の付き合い上、大手旅行会社との取引があり、
どこの馬の骨かわからないものを使うわけありません。

その時の幹事は、管理職になったばかりで、初めての社内旅行の幹事。
失敗は許されません。
そんな時に私が何回もお伺いして、やっとお会いすることができました。

大手旅行会社との相見積もり。
大阪から新幹線・JRを利用し、高知駅から貸し切りバスで高知に宿泊するコース。
秋のハイシーズンの週末。
JR団体の席が、とれるかどうか分かりません。

どちらの旅行会社にするのか、決定の最終段階になり、
その方に、「本当にとれるのか?」と、聞かれ「絶対にとります!」と答えてしまいました。
根拠のない絶対はありません。
しかし、その時、「やってみないと分かりません」では、取れなかったかもしれません。

今、考えたら、「団体枠で取れない場合、1か月前発売の個札で対応し……
確約はできませんが、全力を尽くします!」としか言えません。
その時は、どんなことがあってもこの仕事を取ろうと。

その結果、決定しました。
が、新大阪―岡山 往復の新幹線、岡山―高知の往路は手配OK。
帰りの高知―岡山だけがが、いろんな手を尽くしても、どうしても取れません。
「絶対にとります!」と言ったので、会う顔がありません。
どうしよう。
その時は、本当に悩みました。正直逃げたかったです。

こんな時にいつも思い出すのが、母からの言葉です。

小学校6年生の時、空手道場に通ってました。
その道場が小学校で空手大会を催し、私も型を披露することになってました。

夏休みの土曜日で、友達とプールに遊びに行っててっきり忘れてました。
夕方帰ってきて、ハッと今日が空手大会だと気付きました。
ああどうしよう。
今から行っても終わっているかもしれない時間だし、
大勢の人の前で叱られるのは嫌だし、恥ずかしいし、怖い。

その時、母が「一回逃げたら、一生に逃げることになる。
 行って思いっきり叱られて、スッキリしてきなさい」

もう終わっていて、片付けをしているところに、正直に謝りました。
かなり怒られましたが、次に道場に行くときは堂々と行くことができました。
この体験が、今でも事あるごとに思い出されます。
どんな時でも、どんな状況でも逃げるなと自分に言い聞かせてます。

お客様に正直に状況を伝えに謝罪に行きました。
「精一杯手を尽くしたのですが、高知―岡山間のJRがお取りできなく、
嘘をつく形になりました。本当に申し訳ございません。」

高知~岡山間は、バスで移動することになりました。
その時は、かなり叱られました。

当日、もちろん私が添乗で同行。
絶対に皆さんを期待以上に喜ばせて、幹事さんに恩返しをする。

1993年 9月25日(土)‐26日(日) 高知旅行が無事に終わりました。
旅行中、話の流れで今日が私の誕生日と告げると、
宴会、二次会で皆さんにお祝いされ、一生忘れられない誕生日となりました。

その方も独断で、旅行会社をすんなり変えることはできません。
数年後に人づてで聞いたのですが、その時、支社長に
「面白い奴がいるので、そいつを何とか使わせて下さい。
何かあったら私が責任をとります。お願いします。」
そんなことがあったのです。

その方は、その10年後に支社長に昇進され、
社内旅行は、それから毎年、今でもお世話になっております。

ある日、その社員の方との話で、
「森本さん、作家は1ページ書くのに、どれだけの資料を用意するかわかりますか?
 両手一杯に入った紙袋、それ位の裏付け、確認が必要なのですよ!」
聞いて衝撃を受けました。

著者が全てをかけて、考えに考え、調べて裏付けをとり、責任もって世に出す。
また、人は一生うち、どれだけ人に会い話をできるのか。
ましてや、本音で話してくれるのは、ごくわずかで限度があります。
読書は、その著者と出会い、考え、本音を見聞することができます。

両手一杯の資料を1ページ1分で読むことができ、
1冊1,000円もかからない。昼食代より安い。
こんな素晴らしいものをなんで今まで気付かなかったのだろうと、
その日から書店に行き、興味のある本を読みあさりました。

その頃、平均したら1週間に一回のペースで添乗に出ていたので、
バス車内、旅館に到着し宴会前、宴会後は、かけがえない読書タイムになりました。

いろんなジャンルの本を読んでいるうちに、落合信彦さんと出会いました。

・狼たちへの伝言
・変わろうとしない奴はもういらない
・勇気の時代
・今がどん底 這い上がるしかないじゃないか
・崖っぷちで踊るヤツすくむヤツ逃げるヤツ  人生をもっと本気でプレイしたくなる本
・明日は、世界を
・「豚」の人生「人間」の人生
・「ケンカ」のすすめ 戦いの数だけチャンスがある
・10年後の自分が見えるヤツ 1年後の自分も見えないヤツ
・1度の失敗であきらめるヤツ 10度の成功でも満足しないヤツ

書店で題名だけをみても、鳥肌が立ち、目頭が熱くなりました。

人生は一度きり。
やらずに後悔するのは、あまりにももったいない。
やりたいと思ったことを、勇気をもって一歩踏み出し、精一杯やろう。
もし、それがダメだったとしても、精一杯やったら、学び経験になる。

いざ カンボジアへ!


1999年 一般旅行業務取扱主任者を取得。
仕事も遊びも何をやっても楽しかった時期。
目標であった旅行会社を開業準備できる。

完全歩合で、会社に無条件で年間かなりとられていて、
独立したら、逆に楽になりやっていけるどころが、さらに頑張って上を目指せる。

そんな時、カンボジア・プノンペン&タイ・バンコクへ仕事が決まり、
2000年2月、私も添乗で同行することになりました。

海外旅行では、海外のホテル、車、ガイド、食事等、
直接取引するのはお互いリスクがあります。
どんな大手旅行会社でも、ランドオペレーター(海外現地旅行会社)を通して手配します。

取引しているランドオペレーターにカンボジア&タイを手配しました。
そのランドオペレーターは、東南アジア専門。
本社は東京で、国内支社は、仙台、名古屋、大阪、福岡にあり、
海外では、タイ、ベトナム、ミャンマー、カンボジアに拠点があります。
主に日本人観光客を取り扱います。

その会社がカンボジアで日本人スタッフを求人してました。

大阪の営業の方に話を聞いたら、カンボジアはクレームだらけで、正直まいっている。

首都のプノンペンは、観光客はめったにくることはなく、
これから伸びるのは、アンコール遺跡の玄関口の街、シェムリアップ。

海外拠点は、グループ会社ですが、その国によって会社が変わります。
カンボジアの社長は、プノンペン在住で、なかなかシェムリアップに行くことができない。
目が届かないから、みんなが好き勝手にやって、お客さんからクレームだらけ。

カンボジアに添乗に行った際、カンボジアの社長に話を聞こう。

始めの1泊は、バンコク。
シャングリラに泊まり、タイ・味の素さんが手厚く接待。
アジアでは、「こんにちは」は、分からなくても「アジノモト」は通じます。

お客様は、食品会社の社長の集まりで、年一回海外旅行へ。
バンコクでの行程を無事に終え、カンボジア・プノンペンへ。
バンコクからの飛行時間は1時間。
この1時間で、タイムマシーンで50年戻る感があります。

プノンペンのホテルは、「シャラトン」。書き間違えではありません。
その名のとおり、設備、サービス、全てがシャラトン。
お客様は、シャングリラとのギャップ、プノンペンの雰囲気に終始圧倒され続けました。

昼食レストランで、カンボジアの三浦社長と初めてお会いし、
カンボジアの状況ついてお聞きしました。

それにしても黒く、日本人離れして、話し方もちょっと違う。
長く住んでいるとカンボジア人に似てくるのだと思っていたら、
カンボジア人で、ポルポト時代(1975-79年)に、命からがら、カンボジアを脱出し、
日本に難民申請し日本に移住。
10年間、横浜で働き、その間に日本国籍取得。

そこのランドオペレーター社長と、三浦さんと知り合い、
1991年カンボジアへ戻り、会社設立。
年齢は、私より一回り上です。

三浦社長は、カンボジアで、相当な権力を持っており、
将来、政治家を経て、次期首相候補とみんな噂してます。

そんな三浦社長から、
「クレームたくさんで、日本からいつも言われて頭が痛い。
森本さん、シェムリアップを立て直してくれませんか。」

その頃のカンボジアには何もなく、これから発展する国。
内戦も終わり、これから治安がよくなる。
旅行業でみたら、カンボジアは、間違いなく観光客が、急増加する。
日本からも近く、日本人も急増加する。
旅行業以外にもチャンスがあります。

カンボジアでやりたい!
今しかない!

帰りの飛行機の中で決心しました。