私の職歴⑥ ~カンボジアでの仕事~

1か月ぶりのバンコク


オフィスに住んでいることで、プライバシーがなかったのがきつかった。

初回は、観光ビザ(30日有効)で入国したので、
一回、国を出ないとオーバーステイで、罰金を取られます。
カンボジアに来て一ヵ月。ビザが切れる前に、タイ・バンコクへ1泊で行きました。

一ヵ月ぶりのバンコク。
全てが揃っていて、欲しいものは何でもあり、日本に帰ってきたような感です。
帰ってきた。と、ほっとしました。

昼食は、バンコク伊勢丹のZENでお寿司。
食べて涙がでたのは初めてです。

夕食は、タニヤの日本式焼肉屋へ。
ここでも涙がでました。

夜は有馬温泉へ。(パッポン近くの大浴場・サウナ)
久しぶりの湯船に浸かりました。ここでも涙がでました。

体重を計ったら、1か月で10キロ減ってました。
ダイエットはいろいろありますが、カンボジアダイエットは間違いありません。
体重計はシェムリアプにもあり、
裸のオヤジの体重計屋さんが自転車を乗って、街を回ってます。

お腹一杯でもう食べれませんが、
明日カンボジアへ帰ったら、食べれなくなるので、
ラーメン亭に行き、吐きそうになりながら食べました。

カンボジアに住んでいて、食べて涙がでたのは、もう一つ。
お客さんに、日清の麺職人(みそ味)をいただき、
すぐ食べたらもったいないので、数日間楽しみに眺めた後、食べた時。
こんなに美味しかったのかと、感動しました。

日本に帰ってきてから、あの時の味が忘れられなく、
同じ物を食べたのですが、普通のカップラーメンの味。

バンコクからシェムリアップへ帰る時、ケンタッキーフライドチキンの、
コーネルバーガー(普通のバーガーより肉が薄い)を10個買って帰りました。

カンボジアに帰り、家で楽しみに食べようと、
翌朝、起きたら、アリが数十匹、群がっていました。

アリはよく家の中に入り込むのは日常茶飯事で、
夜寝ていたら、横でゴソゴソ音がして、見たらアリの行列。数百匹、数千匹の行列。
そんな時、退治したら群れがバラバラになり、一晩中格闘になるので、そのまま寝ます。
翌朝、何事もなかったように、消えているのです。
種類があって、赤アリの場合は、とにかく逃げます。
噛まれたらとんでもなく痛い。

ケンタッキーハンバーガーは貴重品なので、
アリが食べた後、いただきました。

バンコクには良いイメージがあり、今でも大好きです。
この時の経験があったからだと思います。

カンボジアでの仕事


そんな調子でのカンボジア生活。
生活以上に大変だったのが、仕事です。
仕事内容はたいしたことないのですが、やはり人です。

仕事内容は、
日本のお客さんが日本の旅行会社へ申し込み、
その旅行会社が、日本のランドオペレーターへ手配。
お見積りし、決定後、その手配を元に、ホテル、食事、車、ガイドを
手配するのが現地での仕事です。
殆どが日本の旅行会社のツアーです。

クレームが多いとは聞いてましたが、それもそのはず。
スタッフは社長、社長の奥さんの親戚ばかり。
何も仕事しないのに、偉そうな態度で、
真面目にやっている親戚ではないスタッフ、ガイド、ドライバーをこきつかい。
みんなが自分勝手にやりたい放題。

その頃のシェムリアプは、日本からの観光客は、月平均2,000~3,000人。
日系ランドオペレーターは5社。
それぞれに日本人がいました。多いところで1社5人もいます。

私のいった会社は、取り扱い数がナンバー1でした。
日本人スタッフはそれまで居なく、入ってもすぐ辞める。
クレームが多くても、いかに日本の営業が頑張って送客しているかの証。

私はこの国に、おじゃまして、仕事をさせてもらっている立場。
しかし、取り扱っているのは日本人観光客。
私が来た役割は、クレームをなくし、逆に増やすこと。

始めは慣れるのに精一杯で、仲良くやることを最優先にしたせいもあって、
何も言いませんでした。

もう飛行機が、到着しているのに、ガイド、ドライバーは、まだ来ない。

決まっている行程を変え、ガイド、ドバイバーが理由をつけ、勝手に追加代金を収受。
日本には旅行業法があって、主催旅行の場合、変更保証金
(ペナルティ)を支払なけれなならない。

アンコールワット・サンライズツアーの遅刻は日常茶飯事。

コミッション欲しさに土産屋に連れまわし。
そのコミッションをガイドとドライバーが奪い合い、ナイフで喧嘩。
そのナイフをもって、お客さんを案内していた。

カンボジアは直行便がなく、タイかベトナム経由で帰国するのですが、
カンボジアを出国する時、その流れが分からないので、お客さんは大混乱。
誰も外国へはおろか、飛行機に乗ったことがないので当然。
これは、日本で出発前にある程度、案内が必要ですが、
そういうインフォメーションを日本に一切カンボジアから発信ないのが原因。

まだまだありますが、
よくこんなので、仕事がまわっていたと、逆に関心しました。

日本の本社の社長から、社員で、優秀なベテランのガイドがいる。
何か問題があったら、その人に相談し、従えと言われてました。

その人は、日本の大手新聞社・プノンペン支局に努めていて、
日本人より日本語のボキャブラリーがあり、頭がよく、
人に対して、今でいう上から目線。
周りもその人の前では、萎縮してます。

カンボジアの社長から、重々注意されていたのが、

カンボジア人に、感情的になったらいけない。
カンボジア人に、人前で怒ってはいけない。
カンボジア人は、正面からでなく、後ろから襲ってきます。

気を付けて下さい。
普通に言われたので、びっくりしました。

カンボジア人は、笑顔で、自己主張はめったにしません。
それでいてプライドが高く、感情的になるのは、最後に本当に怒った時。
ポルポト時代の名残りだと思います。
穏便に笑顔でいないと、命の危険があり、
自己主張すればすぐに殺される。

その人とも仲良くなろう。
親戚の人たちとも仲良くなろうと、頑張ったのですが、
かなり無理をしていました。
それが、逆になめられていました。
それがだんだん蓄積してきました。

もう我慢の限界です。
「本物の日本人をなめるなよ!!」

私の職歴③ ~読書との出会い~

読書のきっかけ


学生時代、働き出してからも、全くといっていいほど、読書をすることがなかったのですが、
本を読むきっかけがありました。

私のお客様で、大手出版社にお世話になっております。

その出会いが、飛び込み営業を始めた頃、何にも知らなく、
大手でもどこでも、躊躇せずに飛び込んでました。

そこの出版社は、仕事の付き合い上、大手旅行会社との取引があり、
どこの馬の骨かわからないものを使うわけありません。

その時の幹事は、管理職になったばかりで、初めての社内旅行の幹事。
失敗は許されません。
そんな時に私が何回もお伺いして、やっとお会いすることができました。

大手旅行会社との相見積もり。
大阪から新幹線・JRを利用し、高知駅から貸し切りバスで高知に宿泊するコース。
秋のハイシーズンの週末。
JR団体の席が、とれるかどうか分かりません。

どちらの旅行会社にするのか、決定の最終段階になり、
その方に、「本当にとれるのか?」と、聞かれ「絶対にとります!」と答えてしまいました。
根拠のない絶対はありません。
しかし、その時、「やってみないと分かりません」では、取れなかったかもしれません。

今、考えたら、「団体枠で取れない場合、1か月前発売の個札で対応し……
確約はできませんが、全力を尽くします!」としか言えません。
その時は、どんなことがあってもこの仕事を取ろうと。

その結果、決定しました。
が、新大阪―岡山 往復の新幹線、岡山―高知の往路は手配OK。
帰りの高知―岡山だけがが、いろんな手を尽くしても、どうしても取れません。
「絶対にとります!」と言ったので、会う顔がありません。
どうしよう。
その時は、本当に悩みました。正直逃げたかったです。

こんな時にいつも思い出すのが、母からの言葉です。

小学校6年生の時、空手道場に通ってました。
その道場が小学校で空手大会を催し、私も型を披露することになってました。

夏休みの土曜日で、友達とプールに遊びに行っててっきり忘れてました。
夕方帰ってきて、ハッと今日が空手大会だと気付きました。
ああどうしよう。
今から行っても終わっているかもしれない時間だし、
大勢の人の前で叱られるのは嫌だし、恥ずかしいし、怖い。

その時、母が「一回逃げたら、一生に逃げることになる。
 行って思いっきり叱られて、スッキリしてきなさい」

もう終わっていて、片付けをしているところに、正直に謝りました。
かなり怒られましたが、次に道場に行くときは堂々と行くことができました。
この体験が、今でも事あるごとに思い出されます。
どんな時でも、どんな状況でも逃げるなと自分に言い聞かせてます。

お客様に正直に状況を伝えに謝罪に行きました。
「精一杯手を尽くしたのですが、高知―岡山間のJRがお取りできなく、
嘘をつく形になりました。本当に申し訳ございません。」

高知~岡山間は、バスで移動することになりました。
その時は、かなり叱られました。

当日、もちろん私が添乗で同行。
絶対に皆さんを期待以上に喜ばせて、幹事さんに恩返しをする。

1993年 9月25日(土)‐26日(日) 高知旅行が無事に終わりました。
旅行中、話の流れで今日が私の誕生日と告げると、
宴会、二次会で皆さんにお祝いされ、一生忘れられない誕生日となりました。

その方も独断で、旅行会社をすんなり変えることはできません。
数年後に人づてで聞いたのですが、その時、支社長に
「面白い奴がいるので、そいつを何とか使わせて下さい。
何かあったら私が責任をとります。お願いします。」
そんなことがあったのです。

その方は、その10年後に支社長に昇進され、
社内旅行は、それから毎年、今でもお世話になっております。

ある日、その社員の方との話で、
「森本さん、作家は1ページ書くのに、どれだけの資料を用意するかわかりますか?
 両手一杯に入った紙袋、それ位の裏付け、確認が必要なのですよ!」
聞いて衝撃を受けました。

著者が全てをかけて、考えに考え、調べて裏付けをとり、責任もって世に出す。
また、人は一生うち、どれだけ人に会い話をできるのか。
ましてや、本音で話してくれるのは、ごくわずかで限度があります。
読書は、その著者と出会い、考え、本音を見聞することができます。

両手一杯の資料を1ページ1分で読むことができ、
1冊1,000円もかからない。昼食代より安い。
こんな素晴らしいものをなんで今まで気付かなかったのだろうと、
その日から書店に行き、興味のある本を読みあさりました。

その頃、平均したら1週間に一回のペースで添乗に出ていたので、
バス車内、旅館に到着し宴会前、宴会後は、かけがえない読書タイムになりました。

いろんなジャンルの本を読んでいるうちに、落合信彦さんと出会いました。

・狼たちへの伝言
・変わろうとしない奴はもういらない
・勇気の時代
・今がどん底 這い上がるしかないじゃないか
・崖っぷちで踊るヤツすくむヤツ逃げるヤツ  人生をもっと本気でプレイしたくなる本
・明日は、世界を
・「豚」の人生「人間」の人生
・「ケンカ」のすすめ 戦いの数だけチャンスがある
・10年後の自分が見えるヤツ 1年後の自分も見えないヤツ
・1度の失敗であきらめるヤツ 10度の成功でも満足しないヤツ

書店で題名だけをみても、鳥肌が立ち、目頭が熱くなりました。

人生は一度きり。
やらずに後悔するのは、あまりにももったいない。
やりたいと思ったことを、勇気をもって一歩踏み出し、精一杯やろう。
もし、それがダメだったとしても、精一杯やったら、学び経験になる。

いざ カンボジアへ!


1999年 一般旅行業務取扱主任者を取得。
仕事も遊びも何をやっても楽しかった時期。
目標であった旅行会社を開業準備できる。

完全歩合で、会社に無条件で年間かなりとられていて、
独立したら、逆に楽になりやっていけるどころが、さらに頑張って上を目指せる。

そんな時、カンボジア・プノンペン&タイ・バンコクへ仕事が決まり、
2000年2月、私も添乗で同行することになりました。

海外旅行では、海外のホテル、車、ガイド、食事等、
直接取引するのはお互いリスクがあります。
どんな大手旅行会社でも、ランドオペレーター(海外現地旅行会社)を通して手配します。

取引しているランドオペレーターにカンボジア&タイを手配しました。
そのランドオペレーターは、東南アジア専門。
本社は東京で、国内支社は、仙台、名古屋、大阪、福岡にあり、
海外では、タイ、ベトナム、ミャンマー、カンボジアに拠点があります。
主に日本人観光客を取り扱います。

その会社がカンボジアで日本人スタッフを求人してました。

大阪の営業の方に話を聞いたら、カンボジアはクレームだらけで、正直まいっている。

首都のプノンペンは、観光客はめったにくることはなく、
これから伸びるのは、アンコール遺跡の玄関口の街、シェムリアップ。

海外拠点は、グループ会社ですが、その国によって会社が変わります。
カンボジアの社長は、プノンペン在住で、なかなかシェムリアップに行くことができない。
目が届かないから、みんなが好き勝手にやって、お客さんからクレームだらけ。

カンボジアに添乗に行った際、カンボジアの社長に話を聞こう。

始めの1泊は、バンコク。
シャングリラに泊まり、タイ・味の素さんが手厚く接待。
アジアでは、「こんにちは」は、分からなくても「アジノモト」は通じます。

お客様は、食品会社の社長の集まりで、年一回海外旅行へ。
バンコクでの行程を無事に終え、カンボジア・プノンペンへ。
バンコクからの飛行時間は1時間。
この1時間で、タイムマシーンで50年戻る感があります。

プノンペンのホテルは、「シャラトン」。書き間違えではありません。
その名のとおり、設備、サービス、全てがシャラトン。
お客様は、シャングリラとのギャップ、プノンペンの雰囲気に終始圧倒され続けました。

昼食レストランで、カンボジアの三浦社長と初めてお会いし、
カンボジアの状況ついてお聞きしました。

それにしても黒く、日本人離れして、話し方もちょっと違う。
長く住んでいるとカンボジア人に似てくるのだと思っていたら、
カンボジア人で、ポルポト時代(1975-79年)に、命からがら、カンボジアを脱出し、
日本に難民申請し日本に移住。
10年間、横浜で働き、その間に日本国籍取得。

そこのランドオペレーター社長と、三浦さんと知り合い、
1991年カンボジアへ戻り、会社設立。
年齢は、私より一回り上です。

三浦社長は、カンボジアで、相当な権力を持っており、
将来、政治家を経て、次期首相候補とみんな噂してます。

そんな三浦社長から、
「クレームたくさんで、日本からいつも言われて頭が痛い。
森本さん、シェムリアップを立て直してくれませんか。」

その頃のカンボジアには何もなく、これから発展する国。
内戦も終わり、これから治安がよくなる。
旅行業でみたら、カンボジアは、間違いなく観光客が、急増加する。
日本からも近く、日本人も急増加する。
旅行業以外にもチャンスがあります。

カンボジアでやりたい!
今しかない!

帰りの飛行機の中で決心しました。

私の職歴② ~飛躍の年~

飛躍の年


1992年から完全歩合制。
頑張っても頑張っても、思うように仕事が取れません。
「いつかは」と、いつもそればかり信じて、精一杯やってました。

その頃、ずっと原付バイクで営業してました。
雨の日、カッパを来て、靴にはスーパーのビニール袋をかぶせて、
お客さん見られない様、遠くで着替えて行くのは大変。

そんな時、社長の奥さんが、乗っている軽自動車を、そろそろ買い換える。
欲しい!!30万円で給料から分割で引くことで購入。
今から考えたら、ボロボロの軽自動車。
だけど、その時は嬉しかった。やっと車に乗れるようになったと。
その軽自動車の後ろのガラスに、ライムのシールが張ってて、
友人からのあだ名が「ライム」になりました。

20代は、車に興味がある年代。
みんな競い合うように、いい車をもっていて、
意中の女性の前では、「こいつ、軽の免許しか持ってないから、やめといた方がいいよ」
と、よくからかわれてました。

ある日、お客さんと喫茶店にコーヒーを飲みに行き、
そこのママが、占いがよく当たるとのことで、軽い気持ちでみてもらいました。

「今まで、よく頑張ってきましたね。全然報われなかったでしょ。
でも、あと3ヵ月後の7月から運勢が変わるので、今まで通りに頑張って下さい。」

占いは興味がなく、何も気にしなく、翌日には忘れてました。
すると7月になり、線を引いたかのように、次から次へと面白いように仕事が入ってきました。
本当に運勢が変わった瞬間でした。

社員が使い終わった後のワープロを、夜に使わせてもらいに行ってたのですが、
その頃、ウィンドウズ95が発売され、すぐに購入。
会社でも堂々と、自宅でも仕事ができるようになったのも、勢いがついたのだと思います。

その後、お客様に応援され、ずっと仕事が入り続け、
その年あたりから初年度の約40倍になりました。

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初めての海外旅行


仕事が調子よくなるにつれ、発言が許されます。
この頃から、毎年年末に海外にでるようになりました。
初めての旅行では、飛行機に乗ったら、嬉しくて嬉しくて、涙が止まらなかった。

添乗では海外に行ってたけど、それはあくまで仕事。

アメリカ、カナダ、オーストラリア。
一人旅でレンタカーで気ままにドライブして、モーテルなりに泊まることが多かったです。
そして、タイに初めて行った際、人生が変わりました。

それまで、添乗でもアジアは中国、台湾、韓国、香港、フィリピン、シンガポール等、
行ってましたが、タイには行ったことありません。

それまで海外旅行のイメージは、欧米。
何でお金を払ってまで、ごちゃごちゃしたような所に行く?と、
東南アジアは特に、よくこんな所に住めるなと、思ってました。

初めてのタイ。
バンコクのドンムアン空港に着いた時の独特の匂い。暑さ。空気。
すぐに馴染みました。
こんな楽しい国があるのかと、一回目で虜になりました。

初めはパクチーが食べれなく、人間の食い物じゃないと。
それが、線を引いたように食べれる日がきます。
タイ料理も、初めは馴染めなかったが、
これも線を引いたように大好物になる日がきます。

人はおおらかで、他人を鑑賞しない自由な空気、物価の安さ、
そこそこ高級な中華レストランで北京ダックを1匹食べても、その当時1,500円位。
一日の終わりにはタイマッサージたっぷり2時間。
日本では3万円するような5つ星ホテルもタイでは8千円。

仕事ものってきて、調整して、タイに通っていました。

タイに行ってうちに、隣りの国、カンボジアが面白いらしいと聞き、
1998年初めてカンボジアの首都・プノンペンへ。
普通はアンコール遺跡のシェムリアップに行くのでしょうが、全く興味がありません。

初めてのカンボジアは、腰を抜かすほど、驚きました。
タイ・バンコクとカンボジア・プノンペンは飛行機で1時間。
タイと横同士の国ですが、全く違い、50年の差がありました。
治安が悪いとは聞いてましたが、人々は素朴で温かく、笑顔で迎えてくれました。

その頃のカンボジアは、97年に内戦が終わったばかり。
たしかに治安が悪く、夜にはたびたび銃声。
バイクの荷台には、何十人も詰め込み、田舎から連れてこれらた、
身売りされる子供の女の子。
市場に行ったら、子供がお金ちょうだい。
猿を片手に脳みそを食べながら。

全てに衝撃を受けました。
それから数回、タイに行った際、カンボジア・プノンペンにも寄りました。

その後、カンボジアに住むなんて夢にも思いませんでした。

プノンペン空港 プノンペン
プノンペン・ポチェントン空港/プノンペン市内

プノンペン プーケット
プノンペンには、アジアの大河・メコン川、トンレサップ川、バサック川 
3つの川が交じり合います。
当時、プノンペン・カンボジアは、世界の暗黒街ベスト10の常連でしたが、
今では、シェムリアップ(アンコール遺跡の街)は、世界の人気リゾートベスト3の常連です。

右の写真は、タイ・プーケット パトンビーチ。

1998-1999年 国家資格受験


仕事も遊びも絶好調!
何をやっても楽しかった時期ですが、私の夢は独立すること。

独立するには、最大の難関である、
国家資格の一般旅行業務取扱主任者(総合旅行業務取扱管理者)が必要です。
国内4科目、海外4科目と範囲が広い。
それまで全然勉強をせずに何回か受けに行きましたが、もちろん不合格。

まずは、国内旅行業務取扱主任者を取得したら、
国内部分の試験科目が免除になるので、先に国内を取得し、
それから集中して一般を取る戦法をとりました。

よし、やるぞ!!
学生時代から勉強しなかったのが、初めて勉強しました。
年一回の試験で、10月に受験。

国内旅行業務取扱主任者 合格!!
俺もやればできるのかもと、自信がつきました。

一年間、仕事に勉強に遊びに全力。
何をやっても楽しく、一番ノッている時期でした。

翌年、自分なりに精一杯やった。
あとは、試験を受け結果を待つだけ。郵送で結果通知。
待ちきれなく、何回も日本旅行業協会に電話してました。

結果発表の日、電話したら、
残念ながら、番号が見当たりません。との返答。
この時の脱力感は強烈で、また一年これ以上に勉強しないといけないと思ったら、
資格はあきらめて、独立する時、名前を貸してもらおうと思いました。

信じられなく、もう一度、電話。
すると違う担当者がでて、合格ですよ。おめでとう!!
見間違えだったらしい。
後日、合格の通知がきました。

今まで、やろうとしなかっただけ。
まずは憧れを持ち、憧れから夢へ。夢から志へ。

この時、私は何でもできる!!
と、本気で思いました。

そんな時期、カンボジア・プノンペン&タイ・バンコクへ仕事が決まり、
2000年2月、私も添乗で同行することになりました。

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