私の職歴⑤ ~カンボジアでの生活~

カンボジアの食事


始めのうちは、まずは全てに慣れようと、カンボジアスタッフと毎回食事も行きました。
行った時が4月で、カンボジアでは一番暑い時期。日中40℃を超えます。
暑さで食欲もなくなってくるのもありますが、食事が合わなかった。

私は、好き嫌いは一切なく、何でも美味しく食べれます。
お米、味噌汁がないとダメとか、一切ないので、
海外でもどこでも美味しくいただいてます。

スタッフと行く場合、地元のローカル店。
たまにゴキブリもでて、日本より一回り大きく、動きがトロい。私は大のゴキブリ嫌い。
テーブルに上がってきても、一緒にいたスタッフは何も知らん顔。
店員に何とかしてと、言っても、何を言っているのこの人。みたいな態度。

料理は、中華料理のように、何種類か注文して、取り分けず、みんなでつついて食べます。
主食は米。インディカ米(タイ米)。
パッサパサで始めは慣れなかったですが、慣れてきて、汁物のおかずと混ぜてたべたら、
なかなかいけます。
逆にカンボジア人が日本米を食べると、嫌な顔をします。
グジャグジャで気持ち悪いとのことです。

スープも大皿に、みんなでいただきます。
スプーンをそのまま口に運び、また、スープにスプーンを入れ、その繰り返し。
だんだん濁ってきて、米粒、おかずのカスも浮き出してきて、
いろんな味を楽しむことができます。
スープの具がなまずなど。ナマズは泥を食べているような味。

日本の鍋は、さすがにそのまま口に運ぶことはないけど、
外国人にはそういう感じでみられているのでしょうか。

昼は向かいのローカルレストランによく行くようになって、
焼きそば、チャーハンは間違いないので、よく注文してましたが、
毎回、ハエが1匹は入ってます。
いちいち言っても相手にされないので、避けて食べます。

ある日、その店で焼きそばを注文し、食べてたら、ハエが1匹、麺に絡んでいる。
いつものことなので、スルー。
2匹目発見。まぁ、しょうがないか。
3匹目には大き目のハエ。我慢の限界。
二度と行かなかったです。

あまり食べれなくなり、夜はスイーツを食べてました。
スイーツといえばオシャレで美味しそうなイメージですが、
裸のおやじがリヤカーで引いている屋台。
練乳かき氷、もち米を甘くかき氷と一緒に。暑いのでその位しか食べれません。

ある日の夕食、一人でスイーツを食べに行こうと、
部屋のシャワーを浴びて行きました。
もちろん水シャワー。
あるだけ良い方で普通はカメに雨水を貯めて、生活用水にします。
下水などのインフラがなく、シャワー水は外に流します。

その日は、排水の流れが悪く、キャップを開けたまま、スイーツへ。
15分後帰宅し、部屋の電気を付けたら、部屋の模様が変わっている。
一見オシャレな空間になっており、いろんな模様がついてます。
よくみたら、ゴキブリが何十匹も排水口から這い上がり、
部屋の壁に引っ付いていました。

生活用品は、オールドマーケットという市場に売ってます。
肉、魚、野菜、衣類、日用品。
入ったとたん、独特のなんともいえない臭い。
また、市場内に風が通らないので、異常に暑く、臭いがこもります。

その頃、日本から来たお客さんに、ここの肉はすごく清潔で安心してお召し上がりいただけます。
ご覧のようにハエのバリアが、この肉を雑菌から守ってくれています。

日用品は、その頃、タイ、ベトナムからの輸入。
タイのインスタントラーメンくらいはあるのですが、
チョコレートなどなく、食べたくても食べれなかった。

シェムリアップ川沿いにカフェに行くようになりました。
そこは観光客の外人が利用が多く、コーヒー、スパゲッティがあります。
店の前にはライフルをもった軍人が警備。安心して食事を楽しめます。
スパゲッティは1種類のみ。カルボナーラ。
見よう見まねで作っているので、毎回味が変わり、日替わり定食感覚。
毎回いろんな味を楽しめましたが、美味しいと思ったことは一度もありませんでした。

Wバーガーができました。
マクドナルドのMをひっくり返しただけの看板。
その看板も赤背景の黄色い文字で見よう見まね。
キンキラの装飾をし、外からは厨房が丸見え。
本物のマクドナルドはおろか、ハンバーガー自体この街にないので、
全ては想像。
裸のオヤジが心を込めて調理しているのが嫌でも見れます。
人が入っているところをを見たことがありません。
結局、一回も店内に入る勇気がなかったです。

部屋にテレビを付けようと、電気屋さんへ。
もちろんイメージの家電量販店ではなく、家に数台テレビを置いているだけの電気屋さんです。
10歳位の女の子が店番をしていて、
テレビは信用のブランド・自称日本製・自称新品「AKIRA」を購入。
延長コードの既製品はもちろんなく、何メートルとその女の子に作ってもらいました。

テレビチャンネルは100近くあり、
みなさん電波を違法にとっているので無料で、世界のテレビ番組を楽しめます。
テレビも購入し、これでカンボジアライフを満喫することができます。

その夜、綺麗な花火の夢をみました。
子供の頃に見たスターマインにも似た花火。

朝起きると、延長コードから燃え、信頼のブランド「AKIRA」も焦げ付いていました。
テレビの電源もつくどころではなく、完全に壊れて廃棄処分。
夢は現実だったのです。
部屋の床は、燃えない素材で火事にならなくてよかった。

移動手段はバイク。
よく一人で西バライ(バイクで15分の人口池)へ、夕日に向かって叫びに行ってました。
そこの夕日は絶景です。
「バカヤロー!!」

私の職歴④ ~カンボジア生活のはじまり~

シェムリアップ到着


カンボジア・プノンペンからの飛行機の中でカンボジアでやる決心をしました。
4/01からスタート。
ちょうど、一か月後に設定しました。

今までお世話になったお客様に説明しにまわりました。
散々お世話になっていたので、本当に申し訳ない気持ち、
また、今まで本当にありがとうございましたと、感謝を伝えました。

それから、出発までの一ヵ月、毎日、送別会を開いていただきました。
一ヵ月のうち、日曜日も開いていただき、送別会がない日は1日のみ。
これは、私の誇りです。

社長から、私のお客様を引き継ぎをお願いされ、快く引き継ぎました。

2000年3月25日、日本を出発。
友達も見送りに、車4台で関西空港へ。

4/01からプノンペンなので、それまで、母と二人で旅行しました。
シンガポール、タイ・パタヤ、バンコク。

3/31 バンコク・ドンムアン空港内でお別れ。
母は日本へ。私はカンボジアへ。
母が1時間程、先に出発だったので、ゲートへお見送り。
ファイナルコールで、いよいよお別れの時、母が号泣。
私までつられて、号泣してしまいました。
その時、手紙をいただき、今でも大事に持ってます。

2000年 4/01 初出勤。
1週間程、プノンペン本社で社長の下で請求書を作りなどの業務をした後、
いよいよ私の仕事場である、シェムリアップへ。
国内線で約40分。

その時が初めてのシェムリアップ。
飛行機上空から見るシェムリアプは、木、田んぼがあるだけで、
プノンペンの雑踏とは、真逆です。

シェムリアプ空港に着いた瞬間、これが空港!?
空港内はエアコンはなく暑い!!
公衆電話もなく、売店もない。
そんな空港なので、もちろんターンテーブルもない。
荷物はリヤカーで運び、窓から手渡し。
空港をでたらバイクタクシーが群がり。

空港からオフィスまで、舗装なしの道を約15分。
プノンペンとは違い、どこまでも高く広がる青空。
南国特有の椰子の木。

着いたオフィスは街の中心からバイクで約5分。
私の自宅は、オフィス内の一部屋。
ドア一つで仕事場。
全体的に暗く、オフィスから話し声が聞こえ、
仕事が終わってもカンボジアスタッフも何かあったらすぐにノックされ、入ってきて、
お客さんで来ている、日本人観光客も部屋に入ってくる始末。

防犯上、窓には鉄格子。収容されているような感。
頑丈な鉄格子を付けていても、窓側には枕を置かないよう注意されました。

雇用契約(現地採用)
月の給料:USD1,000- 日本円で11~12万円
家賃は会社負担
土曜日は半日勤務、日曜日休み
年一回、日本への往復航空券

日本からしてみれば、安いですが、
物価の安いカンボジアでは、十分に暮らせるレベルとの事。
こればかりは、暮らしてみないと分かりません。

私の職歴② ~飛躍の年~

飛躍の年


1992年から完全歩合制。
頑張っても頑張っても、思うように仕事が取れません。
「いつかは」と、いつもそればかり信じて、精一杯やってました。

その頃、ずっと原付バイクで営業してました。
雨の日、カッパを来て、靴にはスーパーのビニール袋をかぶせて、
お客さん見られない様、遠くで着替えて行くのは大変。

そんな時、社長の奥さんが、乗っている軽自動車を、そろそろ買い換える。
欲しい!!30万円で給料から分割で引くことで購入。
今から考えたら、ボロボロの軽自動車。
だけど、その時は嬉しかった。やっと車に乗れるようになったと。
その軽自動車の後ろのガラスに、ライムのシールが張ってて、
友人からのあだ名が「ライム」になりました。

20代は、車に興味がある年代。
みんな競い合うように、いい車をもっていて、
意中の女性の前では、「こいつ、軽の免許しか持ってないから、やめといた方がいいよ」
と、よくからかわれてました。

ある日、お客さんと喫茶店にコーヒーを飲みに行き、
そこのママが、占いがよく当たるとのことで、軽い気持ちでみてもらいました。

「今まで、よく頑張ってきましたね。全然報われなかったでしょ。
でも、あと3ヵ月後の7月から運勢が変わるので、今まで通りに頑張って下さい。」

占いは興味がなく、何も気にしなく、翌日には忘れてました。
すると7月になり、線を引いたかのように、次から次へと面白いように仕事が入ってきました。
本当に運勢が変わった瞬間でした。

社員が使い終わった後のワープロを、夜に使わせてもらいに行ってたのですが、
その頃、ウィンドウズ95が発売され、すぐに購入。
会社でも堂々と、自宅でも仕事ができるようになったのも、勢いがついたのだと思います。

その後、お客様に応援され、ずっと仕事が入り続け、
その年あたりから初年度の約40倍になりました。

ビガー・トラベル・サービス ビガー・トラベル・サービス

初めての海外旅行


仕事が調子よくなるにつれ、発言が許されます。
この頃から、毎年年末に海外にでるようになりました。
初めての旅行では、飛行機に乗ったら、嬉しくて嬉しくて、涙が止まらなかった。

添乗では海外に行ってたけど、それはあくまで仕事。

アメリカ、カナダ、オーストラリア。
一人旅でレンタカーで気ままにドライブして、モーテルなりに泊まることが多かったです。
そして、タイに初めて行った際、人生が変わりました。

それまで、添乗でもアジアは中国、台湾、韓国、香港、フィリピン、シンガポール等、
行ってましたが、タイには行ったことありません。

それまで海外旅行のイメージは、欧米。
何でお金を払ってまで、ごちゃごちゃしたような所に行く?と、
東南アジアは特に、よくこんな所に住めるなと、思ってました。

初めてのタイ。
バンコクのドンムアン空港に着いた時の独特の匂い。暑さ。空気。
すぐに馴染みました。
こんな楽しい国があるのかと、一回目で虜になりました。

初めはパクチーが食べれなく、人間の食い物じゃないと。
それが、線を引いたように食べれる日がきます。
タイ料理も、初めは馴染めなかったが、
これも線を引いたように大好物になる日がきます。

人はおおらかで、他人を鑑賞しない自由な空気、物価の安さ、
そこそこ高級な中華レストランで北京ダックを1匹食べても、その当時1,500円位。
一日の終わりにはタイマッサージたっぷり2時間。
日本では3万円するような5つ星ホテルもタイでは8千円。

仕事ものってきて、調整して、タイに通っていました。

タイに行ってうちに、隣りの国、カンボジアが面白いらしいと聞き、
1998年初めてカンボジアの首都・プノンペンへ。
普通はアンコール遺跡のシェムリアップに行くのでしょうが、全く興味がありません。

初めてのカンボジアは、腰を抜かすほど、驚きました。
タイ・バンコクとカンボジア・プノンペンは飛行機で1時間。
タイと横同士の国ですが、全く違い、50年の差がありました。
治安が悪いとは聞いてましたが、人々は素朴で温かく、笑顔で迎えてくれました。

その頃のカンボジアは、97年に内戦が終わったばかり。
たしかに治安が悪く、夜にはたびたび銃声。
バイクの荷台には、何十人も詰め込み、田舎から連れてこれらた、
身売りされる子供の女の子。
市場に行ったら、子供がお金ちょうだい。
猿を片手に脳みそを食べながら。

全てに衝撃を受けました。
それから数回、タイに行った際、カンボジア・プノンペンにも寄りました。

その後、カンボジアに住むなんて夢にも思いませんでした。

プノンペン空港 プノンペン
プノンペン・ポチェントン空港/プノンペン市内

プノンペン プーケット
プノンペンには、アジアの大河・メコン川、トンレサップ川、バサック川 
3つの川が交じり合います。
当時、プノンペン・カンボジアは、世界の暗黒街ベスト10の常連でしたが、
今では、シェムリアップ(アンコール遺跡の街)は、世界の人気リゾートベスト3の常連です。

右の写真は、タイ・プーケット パトンビーチ。

1998-1999年 国家資格受験


仕事も遊びも絶好調!
何をやっても楽しかった時期ですが、私の夢は独立すること。

独立するには、最大の難関である、
国家資格の一般旅行業務取扱主任者(総合旅行業務取扱管理者)が必要です。
国内4科目、海外4科目と範囲が広い。
それまで全然勉強をせずに何回か受けに行きましたが、もちろん不合格。

まずは、国内旅行業務取扱主任者を取得したら、
国内部分の試験科目が免除になるので、先に国内を取得し、
それから集中して一般を取る戦法をとりました。

よし、やるぞ!!
学生時代から勉強しなかったのが、初めて勉強しました。
年一回の試験で、10月に受験。

国内旅行業務取扱主任者 合格!!
俺もやればできるのかもと、自信がつきました。

一年間、仕事に勉強に遊びに全力。
何をやっても楽しく、一番ノッている時期でした。

翌年、自分なりに精一杯やった。
あとは、試験を受け結果を待つだけ。郵送で結果通知。
待ちきれなく、何回も日本旅行業協会に電話してました。

結果発表の日、電話したら、
残念ながら、番号が見当たりません。との返答。
この時の脱力感は強烈で、また一年これ以上に勉強しないといけないと思ったら、
資格はあきらめて、独立する時、名前を貸してもらおうと思いました。

信じられなく、もう一度、電話。
すると違う担当者がでて、合格ですよ。おめでとう!!
見間違えだったらしい。
後日、合格の通知がきました。

今まで、やろうとしなかっただけ。
まずは憧れを持ち、憧れから夢へ。夢から志へ。

この時、私は何でもできる!!
と、本気で思いました。

そんな時期、カンボジア・プノンペン&タイ・バンコクへ仕事が決まり、
2000年2月、私も添乗で同行することになりました。

ビガー・トラベル・サービス