私の職歴⑨ ~生涯の友~

いつも思い出したのが日本でのささやかな楽しみ


私がカンボジアに来て、いろいろな衝突があり、自信がなくなってきました。

何しに来たんだろう。
何を目的にやってきたんだろう。
何の為に、嫌われものになってもやるのだろう。

心を打ち解け、本音で話せる人は誰もいません。

あのまま日本でやってたらどうなっていたのだろう。
道を間違ったかな。

カンボジアに行く前の日本では、
土曜日の午後は、一人で焼肉の倉で焼肉定食を食べ、
その後、佐竹台公園で車を停め、
ジョージアのコーヒー(ロング缶)、ベビースターラーメンを食べ昼寝。
日本に居た時、かけがえない土曜日の午後のひと時。

カンボジアでは、土曜日の午後に、その光景がいつも思い出されました。

土曜日の午後の佐竹台公園でのジョージアのコーヒー、ベビースターラーメンが、
一番幸せを感じていたのが、離れてみて初めて気付きました。
たわいない、なにもないことが、一番の幸せという事も分かりました。

カンボジア・シェムリアプでは、石(遺跡)はあっても娯楽がない。
ラッキーカフェに行って、コーヒーを飲み、
何回も読んだ本を読むしかありません。

食べ物も慣れなく、
住んでいる日本人にたまに会うと、「また痩せたね」が挨拶になりました。

バイク事故


ある日、土曜日の夕方、ガイドから電話があり、
お客さんが、プノンバケン(夕日の名所遺跡)で、ガイドと会えなく困っていると連絡。
通常、そのうち会えるので、10分ほど様子をみました。
また電話があり、まだ会えない。
ガイド誰か分からいけど、私の会社のお客さんということは確からしい。

会社からアンコールワットまで約15分かかるので、大急ぎで向かいました。
バイクを飛ばし、時速50km位で向かっている時、
穴があり、突っ込んでしまいました。

アスファルトの舗装道は、街の中心しかなく、
日本と違い、補修しないので、アスファルトでは、よく大穴があります。
そこに突っ込んで、頭を強打、全身も強打。

日本だったら、救急車で病院へ直行、即入院レベルですが、
ここはカンボジア。
救急車はなく、病院はあることはありますが、
かえって悪化するので、意地でも行きませんでした。
その事故で1ヵ月以上、頭が痛く、食べるのも一苦労で、
まだ、その時の傷がありますが、16年経った今でも病院は行ってません。

カンボジアで事故があったら、バンコクに搬送されます。
ヘリコプター、飛行機をチャーターするので、何百万円という金額になります。
カード付帯保険では、殆ど対応しきれてません。
海外に行くときは、必ず海外旅行傷害保険に加入しましょう!!
ちなみに弊社は、AIU保険の代理店です。

お客さんがケガをした時は、なるべく我慢をしてもらいますが、
ひどい場合、その日の便でバンコクへ行っていただきます。

ある日、お客さんがバスタブで転倒し、目の上を切って、
出血がひどく、一刻も早く処置が必要でした。
病院に連れて行き、早く縫ってと、お願いしたら、
やったことがない。怖いから嫌だ。とのこと。
「あなたならできる!!Go for broke!!」と勇気付け、縫ったことがあります。

※Go for broke:マサ斉藤の格言
 マサ斉藤…日本を代表するプロレスラー。
 アメリカ生活が長く、そのアメリカで事件を起こし刑務所へ。
 その中であみだした必殺技「監獄固め」は、全米を震え上がらせた。

その時、お客さんは、かなり痛がってました。
私もそのお客さんを必死で押さえ縫いました。

会計の際、その先生が「いくら請求したらいい?」
とりあえず、$50-位は!?
そんなにもらっていいのか!?
お客さんには、応急処置なので、バンコクに着いたら、
直行で病院に行ってくださいとご案内しました。

穴に突っ込んで、何十分も立ち上がれなく、そのうち人だかりが。
みんな大丈夫!?と、声をかけてくれていたのですが、全然動けません。
バイクはボロボロで、至る所から出血。服もボロボロ。

知り合いのガイドが通り、連絡をとってくれました。
お客さんは、ガイドと会うことができ、今レストランにいるとのこと。
(ガイドは、やはりダンポンでした)
事故後、そのまま血だらけで、そのお客さんがいるレストランに謝罪しに行きました。

引きずりながら、頭も強打したので、顔も歪めながら。
「大変ご迷惑をおかけしまして、申し訳ございませんでした」
すると、こちらを振り向くこともせず、手で追い払われました。

その頃は、会社に住んでいた頃で、家(会社)まで送ってもらい、
みんなが心配してくれました。
その中でも一番心配してくれ、薬を買ってきてくれて、手当してもらい、
ずっと付っきりで面倒を見てくれた人がいました。

生涯の友との出会い


それまでも彼を知っていたのですが、挨拶程度で、深く話したことはありませんでした。

これがチャンヤとの出会いです。
この人に出会えただけで、カンボジアに来た価値がある程の、
私の人生の中で、大きな大きな出会いです。

今でも、チャンヤを思い出す度、胸が痛みます。

1976年プノンペン生まれ。
お父さんは、ポルポト時代に亡くなり、お母さんが、チャンヤと弟を育てました。
子供の頃からシクロ(輪タク)の運転手をし、家計を助けながら、
夜、電灯の下で、英語の勉強。
英語の勉強になるのでホテルのフロントで働き、
よく利用する日本人と出会い、日本語を勉強し、
その方の推薦で、国費で日本にも短期留学をすることができ、
シェムリアップで日本語ガイドになりました。

それがきっかけで、チャンヤとは仲良くなりました。
人間味あふれ、ビールが好きで、女好き。
良い奴で、話せば話すほど、尊敬しました。

私が一番辛い時、どんどん人が離れて行った時も、いつでも支えてくれました。

私はカンボジアスタッフからは、悪役日本人だったので、
仲良くなるにつれ、チャンヤに対しての中傷。
「日本人に胡麻をする」
「チャンヤは、森本にお金を渡している」
そういうのが私の耳にも入ってきました。

そんな時、チャンヤが、話したいことがあると、
お茶を飲みに行きました。
日曜日の午後。
市内中心にお洒落なカフェがオープン。「Red Piano」
そこで話をしました。

「森本さん、いろいろ言われてますが、
私は、正しいことをやっていると思います。
私が言われてることは、何も気にしないで下さい。
私は森本さんを、どんなことがあろうと信じてます」

今から2年前にお客さんとカンボジアへ。
ガイドは、チャンヤ。
カンボジアは激変をして、バーストリートなるものができてます。
欧米人客でかなりの人だかり。
チャンヤも頭が禿げ上がり。
その中心にあるのが、「Red Piano」。

お客さんを案内しながら、「Red Piano」の前を通った時、
チャンヤが、ここ覚えてますか!?

その時、嬉しくて、嗚咽をこらえ何も言えませんでした。
一日でも忘れたことなどありません。

チャンヤ

私の職歴⑦ ~カンボジアでの改革~

カンボジアに住んで仕事をして、1か月が過ぎ、
生活にも少しは慣れ、仕事の流れも分かってきました。

クレームだらけのカンボジアの会社。
私の職務は、クレームをなくし、さらに来客を増やす。そしてガイドの教育。
三浦社長からは、思うようにやっていいと承諾を得ました。

3つのルール


まずはルール作り。
当たり前のルールで、簡単そうに思えますが、これが難しい。

1.遅刻はしない。
・ガイド、ドバイバーは到着便の30分前までに会社へ来て、
 お客様のミーティングボードも持って空港へ。

・出発の10分前にホテルで待機。

2.オプショナルツアーは会社を通す。
・行程を勝手に変更し、コミッション稼ぎはダメです。
 会社を通したら、それよりも多く稼げて、クレームはでません。 

3.トラブルがあったら報告。
・すぐに報告してください。私が会いに行き、火消し役になります。

この3つをルールを作り、スタッフに説明しました。

文化の違いがもちろんあります。
それは日本人が正しいというのではなく、日本人を相手にして仕事をするにあたり、
知っておかなければなりません。

押し付けないように、穏やかに、怒らずに、喧嘩をせずに、楽しく。
私があまり前にでないよう意識してました。


3つのルールとともに、自分の役割を決めました。

・日本にはクレームを持ち帰らさない。
お客様全てに、カンボジアでの注意事項の案内を作り、
私が空港に張り付いて、お客様へご挨拶。

・日本への情報発信。
新しいホテル、レストラン、カンボジア情報などどんな細かいことでも
発信することにより、カンボジアを広く知ってもらう。

・お客様へのサービス。
暑い中、遺跡を歩き、日中40℃を超える時には、遺跡での温度は、50℃を超える時も。
観光のパターンは、午後アンコールワットへ行き、プノンバケンで夕日鑑賞。
そのままレストランで夕食なので、汗だくのままです。
こんな時、冷たいおしぼりがあれば、どれだけ嬉しいか。

三浦社長に相談し、即「OK!」
カンボジアスタッフに話し、それはいい考えだ。協力すると約束。

すぐに実行しました。
オールド市場でおしぼりに似たタオルを300本、クーラーボックスを10個購入。
冷蔵庫は会社にあったので、タオルを水に付け、1本1本巻いて、冷凍庫・冷蔵庫へ。
おしぼりを洗う洗濯機を購入しようと思ったら、みんなから止められました。
誰も洗濯機を知らなかったのです。
毎日の事で、手洗いはすごい労力なので、洗濯機を購入しました。

念願の引っ越し


家もオフィスとドア1枚で、プライバシーがなく、引っ越すことにしました。
もちろん不動産業、アパートなどなく、
大きくて、住みやすそうな家に直接行って、空き部屋ありませんか?と、交渉するだけ。

いろいろ見に行きました。
小奇麗で、大きさもちょうどよい家がありました。
家賃1ヶ月:USD200-。
通貨はカンボジア・リエルがありますが、使うのは少額で、米ドルが流通してます。

2階部分で、気に入り、ここで決めよう。
帰り際、窓を開けてみると、1階部分にはワニの群れ。
横の家の塀との狭いスペースで、200匹以上はいました。

カンボジアでは、一般の家でもワニを育てており、
餌を与えるだけで、手間がかからず、大きくなったら高値で売れます。
寝ぼけて落ちたら終わり。
さすがにやめました。

違うところで、日本のワンルーム位(約20㎡)で、狭いですが、
小奇麗で、居心地が良さそう。
なにより大家さんの家族がいい人なので、契約しました。
1ヶ月:USD150-ドル。電気代別。

そこの家主の住み込みのメイドさんに、洗濯、掃除等、1ヶ月:USD30-でお願いしました。
20歳の独身の素直で可愛い娘さん。
田舎から働きに来て、(シェムリアップも田舎ですが)
メイドをやって現金を稼ぎ、何か月に一回、田舎へ持ち帰ります。

○写真は自宅。
私の趣味ではありません!全て家主さんの趣味。
家主:パパ・ママ・息子。他には、ちびまるこにでてくる、そっくりのおじいちゃん

事件勃発


なるべく私が前に出ず、怒らず、押し付けないように、穏やかに、喧嘩をせずに、楽しく。
が、かなりストレスになってました。
それをすることによって、舐められるのです。
まだカンボジアに来て、一回も怒ったことがありませんでした。

そんなある日、事件が起こります。
前に紹介した、何かあったら相談し従えと、日本の本社の社長から言われていた
優秀なカンボジアナンバー1ベテランガイド社員。

かなり遅刻が目立っていました。
もちろん誰も何も言いません。
他のガイド、ドバイバーも真似をする。
その人がメチャクチャにしているのは、誰がみても分かりました。

いつものように遅刻。飛行機は到着している。
私が、代わりにガイドをすると、会社を出たとき、
彼が何食わぬ態度で堂々ときました。
「○○さん、遅刻ですよ。到着30分前に来てください」
と、やさしく、穏やかに言いました。
無視。

もう一度、やさしく「聞こえてる?」
無視。

もう一度、やさしく「聞こえてないのかな~?」
すると、私を睨み付けて、唾を吐きました。
「ブチーン!!」と、はっきり何かが切れる音が聞こえました。
ずっと我慢していたのが、爆発してしまいました。

カンボジア人に感情むき出しで、怒るのはご法度。
しかも最高にプライドが高い。

泣いて「お前は絶対許さない」。
スタッフ全員が見に来ていて、
それから態度が明らかに変わりました。
そのナンバー1ガイドは、その時限りで退職。

その事件以来、訴えられ、新聞に載り、脅迫され続ける始まりでした。

私の職歴④ ~カンボジア生活のはじまり~

シェムリアップ到着


カンボジア・プノンペンからの飛行機の中でカンボジアでやる決心をしました。
4/01からスタート。
ちょうど、一か月後に設定しました。

今までお世話になったお客様に説明しにまわりました。
散々お世話になっていたので、本当に申し訳ない気持ち、
また、今まで本当にありがとうございましたと、感謝を伝えました。

それから、出発までの一ヵ月、毎日、送別会を開いていただきました。
一ヵ月のうち、日曜日も開いていただき、送別会がない日は1日のみ。
これは、私の誇りです。

社長から、私のお客様を引き継ぎをお願いされ、快く引き継ぎました。

2000年3月25日、日本を出発。
友達も見送りに、車4台で関西空港へ。

4/01からプノンペンなので、それまで、母と二人で旅行しました。
シンガポール、タイ・パタヤ、バンコク。

3/31 バンコク・ドンムアン空港内でお別れ。
母は日本へ。私はカンボジアへ。
母が1時間程、先に出発だったので、ゲートへお見送り。
ファイナルコールで、いよいよお別れの時、母が号泣。
私までつられて、号泣してしまいました。
その時、手紙をいただき、今でも大事に持ってます。

2000年 4/01 初出勤。
1週間程、プノンペン本社で社長の下で請求書を作りなどの業務をした後、
いよいよ私の仕事場である、シェムリアップへ。
国内線で約40分。

その時が初めてのシェムリアップ。
飛行機上空から見るシェムリアプは、木、田んぼがあるだけで、
プノンペンの雑踏とは、真逆です。

シェムリアプ空港に着いた瞬間、これが空港!?
空港内はエアコンはなく暑い!!
公衆電話もなく、売店もない。
そんな空港なので、もちろんターンテーブルもない。
荷物はリヤカーで運び、窓から手渡し。
空港をでたらバイクタクシーが群がり。

空港からオフィスまで、舗装なしの道を約15分。
プノンペンとは違い、どこまでも高く広がる青空。
南国特有の椰子の木。

着いたオフィスは街の中心からバイクで約5分。
私の自宅は、オフィス内の一部屋。
ドア一つで仕事場。
全体的に暗く、オフィスから話し声が聞こえ、
仕事が終わってもカンボジアスタッフも何かあったらすぐにノックされ、入ってきて、
お客さんで来ている、日本人観光客も部屋に入ってくる始末。

防犯上、窓には鉄格子。収容されているような感。
頑丈な鉄格子を付けていても、窓側には枕を置かないよう注意されました。

雇用契約(現地採用)
月の給料:USD1,000- 日本円で11~12万円
家賃は会社負担
土曜日は半日勤務、日曜日休み
年一回、日本への往復航空券

日本からしてみれば、安いですが、
物価の安いカンボジアでは、十分に暮らせるレベルとの事。
こればかりは、暮らしてみないと分かりません。