私の職歴⑤ ~カンボジアでの生活~

カンボジアの食事


始めのうちは、まずは全てに慣れようと、カンボジアスタッフと毎回食事も行きました。
行った時が4月で、カンボジアでは一番暑い時期。日中40℃を超えます。
暑さで食欲もなくなってくるのもありますが、食事が合わなかった。

私は、好き嫌いは一切なく、何でも美味しく食べれます。
お米、味噌汁がないとダメとか、一切ないので、
海外でもどこでも美味しくいただいてます。

スタッフと行く場合、地元のローカル店。
たまにゴキブリもでて、日本より一回り大きく、動きがトロい。私は大のゴキブリ嫌い。
テーブルに上がってきても、一緒にいたスタッフは何も知らん顔。
店員に何とかしてと、言っても、何を言っているのこの人。みたいな態度。

料理は、中華料理のように、何種類か注文して、取り分けず、みんなでつついて食べます。
主食は米。インディカ米(タイ米)。
パッサパサで始めは慣れなかったですが、慣れてきて、汁物のおかずと混ぜてたべたら、
なかなかいけます。
逆にカンボジア人が日本米を食べると、嫌な顔をします。
グジャグジャで気持ち悪いとのことです。

スープも大皿に、みんなでいただきます。
スプーンをそのまま口に運び、また、スープにスプーンを入れ、その繰り返し。
だんだん濁ってきて、米粒、おかずのカスも浮き出してきて、
いろんな味を楽しむことができます。
スープの具がなまずなど。ナマズは泥を食べているような味。

日本の鍋は、さすがにそのまま口に運ぶことはないけど、
外国人にはそういう感じでみられているのでしょうか。

昼は向かいのローカルレストランによく行くようになって、
焼きそば、チャーハンは間違いないので、よく注文してましたが、
毎回、ハエが1匹は入ってます。
いちいち言っても相手にされないので、避けて食べます。

ある日、その店で焼きそばを注文し、食べてたら、ハエが1匹、麺に絡んでいる。
いつものことなので、スルー。
2匹目発見。まぁ、しょうがないか。
3匹目には大き目のハエ。我慢の限界。
二度と行かなかったです。

あまり食べれなくなり、夜はスイーツを食べてました。
スイーツといえばオシャレで美味しそうなイメージですが、
裸のおやじがリヤカーで引いている屋台。
練乳かき氷、もち米を甘くかき氷と一緒に。暑いのでその位しか食べれません。

ある日の夕食、一人でスイーツを食べに行こうと、
部屋のシャワーを浴びて行きました。
もちろん水シャワー。
あるだけ良い方で普通はカメに雨水を貯めて、生活用水にします。
下水などのインフラがなく、シャワー水は外に流します。

その日は、排水の流れが悪く、キャップを開けたまま、スイーツへ。
15分後帰宅し、部屋の電気を付けたら、部屋の模様が変わっている。
一見オシャレな空間になっており、いろんな模様がついてます。
よくみたら、ゴキブリが何十匹も排水口から這い上がり、
部屋の壁に引っ付いていました。

生活用品は、オールドマーケットという市場に売ってます。
肉、魚、野菜、衣類、日用品。
入ったとたん、独特のなんともいえない臭い。
また、市場内に風が通らないので、異常に暑く、臭いがこもります。

その頃、日本から来たお客さんに、ここの肉はすごく清潔で安心してお召し上がりいただけます。
ご覧のようにハエのバリアが、この肉を雑菌から守ってくれています。

日用品は、その頃、タイ、ベトナムからの輸入。
タイのインスタントラーメンくらいはあるのですが、
チョコレートなどなく、食べたくても食べれなかった。

シェムリアップ川沿いにカフェに行くようになりました。
そこは観光客の外人が利用が多く、コーヒー、スパゲッティがあります。
店の前にはライフルをもった軍人が警備。安心して食事を楽しめます。
スパゲッティは1種類のみ。カルボナーラ。
見よう見まねで作っているので、毎回味が変わり、日替わり定食感覚。
毎回いろんな味を楽しめましたが、美味しいと思ったことは一度もありませんでした。

Wバーガーができました。
マクドナルドのMをひっくり返しただけの看板。
その看板も赤背景の黄色い文字で見よう見まね。
キンキラの装飾をし、外からは厨房が丸見え。
本物のマクドナルドはおろか、ハンバーガー自体この街にないので、
全ては想像。
裸のオヤジが心を込めて調理しているのが嫌でも見れます。
人が入っているところをを見たことがありません。
結局、一回も店内に入る勇気がなかったです。

部屋にテレビを付けようと、電気屋さんへ。
もちろんイメージの家電量販店ではなく、家に数台テレビを置いているだけの電気屋さんです。
10歳位の女の子が店番をしていて、
テレビは信用のブランド・自称日本製・自称新品「AKIRA」を購入。
延長コードの既製品はもちろんなく、何メートルとその女の子に作ってもらいました。

テレビチャンネルは100近くあり、
みなさん電波を違法にとっているので無料で、世界のテレビ番組を楽しめます。
テレビも購入し、これでカンボジアライフを満喫することができます。

その夜、綺麗な花火の夢をみました。
子供の頃に見たスターマインにも似た花火。

朝起きると、延長コードから燃え、信頼のブランド「AKIRA」も焦げ付いていました。
テレビの電源もつくどころではなく、完全に壊れて廃棄処分。
夢は現実だったのです。
部屋の床は、燃えない素材で火事にならなくてよかった。

移動手段はバイク。
よく一人で西バライ(バイクで15分の人口池)へ、夕日に向かって叫びに行ってました。
そこの夕日は絶景です。
「バカヤロー!!」


私の職歴④ ~カンボジア生活のはじまり~

シェムリアップ到着


カンボジア・プノンペンからの飛行機の中でカンボジアでやる決心をしました。
4/01からスタート。
ちょうど、一か月後に設定しました。

今までお世話になったお客様に説明しにまわりました。
散々お世話になっていたので、本当に申し訳ない気持ち、
また、今まで本当にありがとうございましたと、感謝を伝えました。

それから、出発までの一ヵ月、毎日、送別会を開いていただきました。
一ヵ月のうち、日曜日も開いていただき、送別会がない日は1日のみ。
これは、私の誇りです。

社長から、私のお客様を引き継ぎをお願いされ、快く引き継ぎました。

2000年3月25日、日本を出発。
友達も見送りに、車4台で関西空港へ。

4/01からプノンペンなので、それまで、母と二人で旅行しました。
シンガポール、タイ・パタヤ、バンコク。

3/31 バンコク・ドンムアン空港内でお別れ。
母は日本へ。私はカンボジアへ。
母が1時間程、先に出発だったので、ゲートへお見送り。
ファイナルコールで、いよいよお別れの時、母が号泣。
私までつられて、号泣してしまいました。
その時、手紙をいただき、今でも大事に持ってます。

2000年 4/01 初出勤。
1週間程、プノンペン本社で社長の下で請求書を作りなどの業務をした後、
いよいよ私の仕事場である、シェムリアップへ。
国内線で約40分。

その時が初めてのシェムリアップ。
飛行機上空から見るシェムリアプは、木、田んぼがあるだけで、
プノンペンの雑踏とは、真逆です。

シェムリアプ空港に着いた瞬間、これが空港!?
空港内はエアコンはなく暑い!!
公衆電話もなく、売店もない。
そんな空港なので、もちろんターンテーブルもない。
荷物はリヤカーで運び、窓から手渡し。
空港をでたらバイクタクシーが群がり。

空港からオフィスまで、舗装なしの道を約15分。
プノンペンとは違い、どこまでも高く広がる青空。
南国特有の椰子の木。

着いたオフィスは街の中心からバイクで約5分。
私の自宅は、オフィス内の一部屋。
ドア一つで仕事場。
全体的に暗く、オフィスから話し声が聞こえ、
仕事が終わってもカンボジアスタッフも何かあったらすぐにノックされ、入ってきて、
お客さんで来ている、日本人観光客も部屋に入ってくる始末。

防犯上、窓には鉄格子。収容されているような感。
頑丈な鉄格子を付けていても、窓側には枕を置かないよう注意されました。

雇用契約(現地採用)
月の給料:USD1,000- 日本円で11~12万円
家賃は会社負担
土曜日は半日勤務、日曜日休み
年一回、日本への往復航空券

日本からしてみれば、安いですが、
物価の安いカンボジアでは、十分に暮らせるレベルとの事。
こればかりは、暮らしてみないと分かりません。


私の職歴③ ~読書との出会い~

読書のきっかけ


学生時代、働き出してからも、全くといっていいほど、読書をすることがなかったのですが、
本を読むきっかけがありました。

私のお客様で、大手出版社にお世話になっております。

その出会いが、飛び込み営業を始めた頃、何にも知らなく、
大手でもどこでも、躊躇せずに飛び込んでました。

そこの出版社は、仕事の付き合い上、大手旅行会社との取引があり、
どこの馬の骨かわからないものを使うわけありません。

その時の幹事は、管理職になったばかりで、初めての社内旅行の幹事。
失敗は許されません。
そんな時に私が何回もお伺いして、やっとお会いすることができました。

大手旅行会社との相見積もり。
大阪から新幹線・JRを利用し、高知駅から貸し切りバスで高知に宿泊するコース。
秋のハイシーズンの週末。
JR団体の席が、とれるかどうか分かりません。

どちらの旅行会社にするのか、決定の最終段階になり、
その方に、「本当にとれるのか?」と、聞かれ「絶対にとります!」と答えてしまいました。
根拠のない絶対はありません。
しかし、その時、「やってみないと分かりません」では、取れなかったかもしれません。

今、考えたら、「団体枠で取れない場合、1か月前発売の個札で対応し……
確約はできませんが、全力を尽くします!」としか言えません。
その時は、どんなことがあってもこの仕事を取ろうと。

その結果、決定しました。
が、新大阪―岡山 往復の新幹線、岡山―高知の往路は手配OK。
帰りの高知―岡山だけがが、いろんな手を尽くしても、どうしても取れません。
「絶対にとります!」と言ったので、会う顔がありません。
どうしよう。
その時は、本当に悩みました。正直逃げたかったです。

こんな時にいつも思い出すのが、母からの言葉です。

小学校6年生の時、空手道場に通ってました。
その道場が小学校で空手大会を催し、私も型を披露することになってました。

夏休みの土曜日で、友達とプールに遊びに行っててっきり忘れてました。
夕方帰ってきて、ハッと今日が空手大会だと気付きました。
ああどうしよう。
今から行っても終わっているかもしれない時間だし、
大勢の人の前で叱られるのは嫌だし、恥ずかしいし、怖い。

その時、母が「一回逃げたら、一生に逃げることになる。
 行って思いっきり叱られて、スッキリしてきなさい」

もう終わっていて、片付けをしているところに、正直に謝りました。
かなり怒られましたが、次に道場に行くときは堂々と行くことができました。
この体験が、今でも事あるごとに思い出されます。
どんな時でも、どんな状況でも逃げるなと自分に言い聞かせてます。

お客様に正直に状況を伝えに謝罪に行きました。
「精一杯手を尽くしたのですが、高知―岡山間のJRがお取りできなく、
嘘をつく形になりました。本当に申し訳ございません。」

高知~岡山間は、バスで移動することになりました。
その時は、かなり叱られました。

当日、もちろん私が添乗で同行。
絶対に皆さんを期待以上に喜ばせて、幹事さんに恩返しをする。

1993年 9月25日(土)‐26日(日) 高知旅行が無事に終わりました。
旅行中、話の流れで今日が私の誕生日と告げると、
宴会、二次会で皆さんにお祝いされ、一生忘れられない誕生日となりました。

その方も独断で、旅行会社をすんなり変えることはできません。
数年後に人づてで聞いたのですが、その時、支社長に
「面白い奴がいるので、そいつを何とか使わせて下さい。
何かあったら私が責任をとります。お願いします。」
そんなことがあったのです。

その方は、その10年後に支社長に昇進され、
社内旅行は、それから毎年、今でもお世話になっております。

ある日、その社員の方との話で、
「森本さん、作家は1ページ書くのに、どれだけの資料を用意するかわかりますか?
 両手一杯に入った紙袋、それ位の裏付け、確認が必要なのですよ!」
聞いて衝撃を受けました。

著者が全てをかけて、考えに考え、調べて裏付けをとり、責任もって世に出す。
また、人は一生うち、どれだけ人に会い話をできるのか。
ましてや、本音で話してくれるのは、ごくわずかで限度があります。
読書は、その著者と出会い、考え、本音を見聞することができます。

両手一杯の資料を1ページ1分で読むことができ、
1冊1,000円もかからない。昼食代より安い。
こんな素晴らしいものをなんで今まで気付かなかったのだろうと、
その日から書店に行き、興味のある本を読みあさりました。

その頃、平均したら1週間に一回のペースで添乗に出ていたので、
バス車内、旅館に到着し宴会前、宴会後は、かけがえない読書タイムになりました。

いろんなジャンルの本を読んでいるうちに、落合信彦さんと出会いました。

・狼たちへの伝言
・変わろうとしない奴はもういらない
・勇気の時代
・今がどん底 這い上がるしかないじゃないか
・崖っぷちで踊るヤツすくむヤツ逃げるヤツ  人生をもっと本気でプレイしたくなる本
・明日は、世界を
・「豚」の人生「人間」の人生
・「ケンカ」のすすめ 戦いの数だけチャンスがある
・10年後の自分が見えるヤツ 1年後の自分も見えないヤツ
・1度の失敗であきらめるヤツ 10度の成功でも満足しないヤツ

書店で題名だけをみても、鳥肌が立ち、目頭が熱くなりました。

人生は一度きり。
やらずに後悔するのは、あまりにももったいない。
やりたいと思ったことを、勇気をもって一歩踏み出し、精一杯やろう。
もし、それがダメだったとしても、精一杯やったら、学び経験になる。

いざ カンボジアへ!


1999年 一般旅行業務取扱主任者を取得。
仕事も遊びも何をやっても楽しかった時期。
目標であった旅行会社を開業準備できる。

完全歩合で、会社に無条件で年間かなりとられていて、
独立したら、逆に楽になりやっていけるどころが、さらに頑張って上を目指せる。

そんな時、カンボジア・プノンペン&タイ・バンコクへ仕事が決まり、
2000年2月、私も添乗で同行することになりました。

海外旅行では、海外のホテル、車、ガイド、食事等、
直接取引するのはお互いリスクがあります。
どんな大手旅行会社でも、ランドオペレーター(海外現地旅行会社)を通して手配します。

取引しているランドオペレーターにカンボジア&タイを手配しました。
そのランドオペレーターは、東南アジア専門。
本社は東京で、国内支社は、仙台、名古屋、大阪、福岡にあり、
海外では、タイ、ベトナム、ミャンマー、カンボジアに拠点があります。
主に日本人観光客を取り扱います。

その会社がカンボジアで日本人スタッフを求人してました。

大阪の営業の方に話を聞いたら、カンボジアはクレームだらけで、正直まいっている。

首都のプノンペンは、観光客はめったにくることはなく、
これから伸びるのは、アンコール遺跡の玄関口の街、シェムリアップ。

海外拠点は、グループ会社ですが、その国によって会社が変わります。
カンボジアの社長は、プノンペン在住で、なかなかシェムリアップに行くことができない。
目が届かないから、みんなが好き勝手にやって、お客さんからクレームだらけ。

カンボジアに添乗に行った際、カンボジアの社長に話を聞こう。

始めの1泊は、バンコク。
シャングリラに泊まり、タイ・味の素さんが手厚く接待。
アジアでは、「こんにちは」は、分からなくても「アジノモト」は通じます。

お客様は、食品会社の社長の集まりで、年一回海外旅行へ。
バンコクでの行程を無事に終え、カンボジア・プノンペンへ。
バンコクからの飛行時間は1時間。
この1時間で、タイムマシーンで50年戻る感があります。

プノンペンのホテルは、「シャラトン」。書き間違えではありません。
その名のとおり、設備、サービス、全てがシャラトン。
お客様は、シャングリラとのギャップ、プノンペンの雰囲気に終始圧倒され続けました。

昼食レストランで、カンボジアの三浦社長と初めてお会いし、
カンボジアの状況ついてお聞きしました。

それにしても黒く、日本人離れして、話し方もちょっと違う。
長く住んでいるとカンボジア人に似てくるのだと思っていたら、
カンボジア人で、ポルポト時代(1975-79年)に、命からがら、カンボジアを脱出し、
日本に難民申請し日本に移住。
10年間、横浜で働き、その間に日本国籍取得。

そこのランドオペレーター社長と、三浦さんと知り合い、
1991年カンボジアへ戻り、会社設立。
年齢は、私より一回り上です。

三浦社長は、カンボジアで、相当な権力を持っており、
将来、政治家を経て、次期首相候補とみんな噂してます。

そんな三浦社長から、
「クレームたくさんで、日本からいつも言われて頭が痛い。
森本さん、シェムリアップを立て直してくれませんか。」

その頃のカンボジアには何もなく、これから発展する国。
内戦も終わり、これから治安がよくなる。
旅行業でみたら、カンボジアは、間違いなく観光客が、急増加する。
日本からも近く、日本人も急増加する。
旅行業以外にもチャンスがあります。

カンボジアでやりたい!
今しかない!

帰りの飛行機の中で決心しました。


私の職歴② ~飛躍の年~

飛躍の年


1992年から完全歩合制。
頑張っても頑張っても、思うように仕事が取れません。
「いつかは」と、いつもそればかり信じて、精一杯やってました。

その頃、ずっと原付バイクで営業してました。
雨の日、カッパを来て、靴にはスーパーのビニール袋をかぶせて、
お客さん見られない様、遠くで着替えて行くのは大変。

そんな時、社長の奥さんが、乗っている軽自動車を、そろそろ買い換える。
欲しい!!30万円で給料から分割で引くことで購入。
今から考えたら、ボロボロの軽自動車。
だけど、その時は嬉しかった。やっと車に乗れるようになったと。
その軽自動車の後ろのガラスに、ライムのシールが張ってて、
友人からのあだ名が「ライム」になりました。

20代は、車に興味がある年代。
みんな競い合うように、いい車をもっていて、
意中の女性の前では、「こいつ、軽の免許しか持ってないから、やめといた方がいいよ」
と、よくからかわれてました。

ある日、お客さんと喫茶店にコーヒーを飲みに行き、
そこのママが、占いがよく当たるとのことで、軽い気持ちでみてもらいました。

「今まで、よく頑張ってきましたね。全然報われなかったでしょ。
でも、あと3ヵ月後の7月から運勢が変わるので、今まで通りに頑張って下さい。」

占いは興味がなく、何も気にしなく、翌日には忘れてました。
すると7月になり、線を引いたかのように、次から次へと面白いように仕事が入ってきました。
本当に運勢が変わった瞬間でした。

社員が使い終わった後のワープロを、夜に使わせてもらいに行ってたのですが、
その頃、ウィンドウズ95が発売され、すぐに購入。
会社でも堂々と、自宅でも仕事ができるようになったのも、勢いがついたのだと思います。

その後、お客様に応援され、ずっと仕事が入り続け、
その年あたりから初年度の約40倍になりました。

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初めての海外旅行


仕事が調子よくなるにつれ、発言が許されます。
この頃から、毎年年末に海外にでるようになりました。
初めての旅行では、飛行機に乗ったら、嬉しくて嬉しくて、涙が止まらなかった。

添乗では海外に行ってたけど、それはあくまで仕事。

アメリカ、カナダ、オーストラリア。
一人旅でレンタカーで気ままにドライブして、モーテルなりに泊まることが多かったです。
そして、タイに初めて行った際、人生が変わりました。

それまで、添乗でもアジアは中国、台湾、韓国、香港、フィリピン、シンガポール等、
行ってましたが、タイには行ったことありません。

それまで海外旅行のイメージは、欧米。
何でお金を払ってまで、ごちゃごちゃしたような所に行く?と、
東南アジアは特に、よくこんな所に住めるなと、思ってました。

初めてのタイ。
バンコクのドンムアン空港に着いた時の独特の匂い。暑さ。空気。
すぐに馴染みました。
こんな楽しい国があるのかと、一回目で虜になりました。

初めはパクチーが食べれなく、人間の食い物じゃないと。
それが、線を引いたように食べれる日がきます。
タイ料理も、初めは馴染めなかったが、
これも線を引いたように大好物になる日がきます。

人はおおらかで、他人を鑑賞しない自由な空気、物価の安さ、
そこそこ高級な中華レストランで北京ダックを1匹食べても、その当時1,500円位。
一日の終わりにはタイマッサージたっぷり2時間。
日本では3万円するような5つ星ホテルもタイでは8千円。

仕事ものってきて、調整して、タイに通っていました。

タイに行ってうちに、隣りの国、カンボジアが面白いらしいと聞き、
1998年初めてカンボジアの首都・プノンペンへ。
普通はアンコール遺跡のシェムリアップに行くのでしょうが、全く興味がありません。

初めてのカンボジアは、腰を抜かすほど、驚きました。
タイ・バンコクとカンボジア・プノンペンは飛行機で1時間。
タイと横同士の国ですが、全く違い、50年の差がありました。
治安が悪いとは聞いてましたが、人々は素朴で温かく、笑顔で迎えてくれました。

その頃のカンボジアは、97年に内戦が終わったばかり。
たしかに治安が悪く、夜にはたびたび銃声。
バイクの荷台には、何十人も詰め込み、田舎から連れてこれらた、
身売りされる子供の女の子。
市場に行ったら、子供がお金ちょうだい。
猿を片手に脳みそを食べながら。

全てに衝撃を受けました。
それから数回、タイに行った際、カンボジア・プノンペンにも寄りました。

その後、カンボジアに住むなんて夢にも思いませんでした。

プノンペン空港 プノンペン
プノンペン・ポチェントン空港/プノンペン市内

プノンペン プーケット
プノンペンには、アジアの大河・メコン川、トンレサップ川、バサック川 
3つの川が交じり合います。
当時、プノンペン・カンボジアは、世界の暗黒街ベスト10の常連でしたが、
今では、シェムリアップ(アンコール遺跡の街)は、世界の人気リゾートベスト3の常連です。

右の写真は、タイ・プーケット パトンビーチ。

1998-1999年 国家資格受験


仕事も遊びも絶好調!
何をやっても楽しかった時期ですが、私の夢は独立すること。

独立するには、最大の難関である、
国家資格の一般旅行業務取扱主任者(総合旅行業務取扱管理者)が必要です。
国内4科目、海外4科目と範囲が広い。
それまで全然勉強をせずに何回か受けに行きましたが、もちろん不合格。

まずは、国内旅行業務取扱主任者を取得したら、
国内部分の試験科目が免除になるので、先に国内を取得し、
それから集中して一般を取る戦法をとりました。

よし、やるぞ!!
学生時代から勉強しなかったのが、初めて勉強しました。
年一回の試験で、10月に受験。

国内旅行業務取扱主任者 合格!!
俺もやればできるのかもと、自信がつきました。

一年間、仕事に勉強に遊びに全力。
何をやっても楽しく、一番ノッている時期でした。

翌年、自分なりに精一杯やった。
あとは、試験を受け結果を待つだけ。郵送で結果通知。
待ちきれなく、何回も日本旅行業協会に電話してました。

結果発表の日、電話したら、
残念ながら、番号が見当たりません。との返答。
この時の脱力感は強烈で、また一年これ以上に勉強しないといけないと思ったら、
資格はあきらめて、独立する時、名前を貸してもらおうと思いました。

信じられなく、もう一度、電話。
すると違う担当者がでて、合格ですよ。おめでとう!!
見間違えだったらしい。
後日、合格の通知がきました。

今まで、やろうとしなかっただけ。
まずは憧れを持ち、憧れから夢へ。夢から志へ。

この時、私は何でもできる!!
と、本気で思いました。

そんな時期、カンボジア・プノンペン&タイ・バンコクへ仕事が決まり、
2000年2月、私も添乗で同行することになりました。

ビガー・トラベル・サービス


私の職歴

今年、創立15周年と、このブログで書いたところ、
たくさんのお祝いのメッセージをいただきました。

このブログを書いてて、何も反響がないので、
誰も見てくれてないと思っていたのですが、
本当にありがたく、感謝致します。

どういう人間なのかを、このブログを通してご紹介します。

1990年 旅行会社に就職


私は、1990年。22歳の時、観光専門学校を中退した後、
北海道の牧場で働いた後、旅行会社に就職しました。
大阪・吹田にある、社員数6名の旅行会社。
地域密着の旅行会社で、主に地域の旅行(団体旅行)。
海外よりも国内旅行が多く、観光バスで行くのが殆ど。

入社する前の学生の頃は、社会にでたら厳しいと、しきりに言われてました。
また、休みがなくなると聞かされてました。

入社してその週末に300人の市会議員後援会旅行。
社員総出で、私も添乗に。
修学旅行、遠足以来のバスに乗り、殆ど初めてに近い温泉旅館。
宴会なるものを初めて経験し、
添乗に行ったら、会席料理を食べれて、温泉に入れるんだと、
その時は感動しました。
社長と同じバスで同乗し出発。
挨拶前(出発して落ち着いたら、幹事⇒添乗員⇒ガイドの順でご挨拶)
に私は寝てしまいました。
凄い度胸だと、期待の新人と名づけられました。(皮肉?)

その週末は、金・土・日曜日で添乗だったので、
その週は、休みがありません。
その翌週、翌々週も、ずっと添乗を入れられ、
その間、そこの社長に休みはどうなっているのでしょうか。
と聞いたら、仕事が無い時だと、初めての休みは4ヶ月後でした。

週末ずっと添乗に行かされてたので、
今でも、添乗と聞くだけで、何ともいえない嫌な気分になるのは、この頃のトラウマです。

旅行会社といったら、カウンター業務イメージでしたが、
それは大手旅行会社の一部で、実際は営業が基本。
こちらからお客様へお伺いします。

また、旅行といったら、飛行機、鉄道を使うイメージでしたが、
基本は観光バス利用の団体旅行。

週末の添乗以外で平日でも、入れ込みがあります。
バス出発のお見送りです。
そこで、お客さん、バス乗務員と打ち合わせ。
朝は早く、夜遅くまで仕事です。

1年近くがたち、大分仕事も分かってきた頃、
中学時代の同級生の女性が、取引先である、東急観光のロイヤルホテル支店へ。
大阪を代表するホテル内で、大手の旅行会社。
同じ時期の入社。

その同級生といろいろ話している内に、業務知識の差が歴然でした。
東急観光は、週休二日。
こちらは、休みもなく添乗に行き、朝早くから見送り、
営業、見積、手配、集金。帰宅は遅い。
嫌でも地図、旅館・ホテルの平面図、旅行業務の流れが
頭に入り込んでます。

ボーナス時期のある日、その同級生が、
「森本くん、そんな頑張ってたら、すごく貰っているんでしょ?」
と聞かれ、そんなことないと謙遜してました。
ちなみに、どの位もらっているのと聞いたら、
「私なんか全然」と、前置きをした後、
額をきいたら、涙が出てきました。
給料は私のほぼ2倍。ボーナスにいたっては約4倍。

給料は評価です。
頑張れば、能力に応じて上げると、社長と話していたのですが、
ここまで差がでれば、情けなくなって、
ただ人に言われたことをやっていては、
一生ここから這い上がれないと悟りました。

決して儲かってない会社ではありませんでした。
私が休みがない程、仕事がありましたし、
この周辺での団体旅行は、ほぼ取っていました。
社長は、郊外の豪邸に住み、近くにはマンション所有。
クラウンの新型がでる度に乗り換え。

人の仕事ばかりやらされ、添乗ばかり行かされ、
自分のお客さんがいないからなのだと考え、
23歳の時に、社員ではなく、完全歩合制と社長にお願いし、
やることになりました。
Hawaii_1991

1992年 森本商店 完全歩合制へ


森本商店の誕生です。
社員ではなくなるので、電話、ワープロ、車も使えなくなり、
もちろん全ての経費は自分。税務申告等も自分で。
その頃は、完全歩合の前例がなく、粗利の60%を私。会社40%。
今から考えると、とんでもない率です。

お金がなく、車なんて買えないので、中古のバイクを購入。
バイク屋のおやじさんに、しつこくお願いし、28,000円を25,000円に。
それを営業車に。
そのバイク屋さんは、今でも私のお客様です。

名刺を作り、いざ飛び込み営業へ!!

月・水・金曜日、お客さんの会社で土木作業のアルバイト。
夕方、アルバイトが終わり、本業。
火・木曜日は飛び込み営業。
土・日曜日は会社の添乗のアルバイト。日給5,000円。
今から考えると、とんでもなく安い。
その頃は、こんなチャンスをいただいたのでと、感謝して精一杯やってました。

〇ある日の週末添乗アルバイトの例
日帰り添乗:日当5,000円
バス会社の車庫へ04:30。(自宅を03:30出発)
06:30出発~21:30帰着
バス会社着22:30。(帰宅23:30)
18時間労働。時給:278円

人のばかりやってたので、飛び込み営業は初めてです。
誰も教えてくれないので、自分で考えてやってました。

思い出すととんでもない営業です。
バイクで廻っているので、冬は寒く、ジャンパーを脱がないまま、
ヘルメットも脱ぐのが面倒になり、
ヘルメットを被ったまま、大手の会社も行ってました。
物知らずとは恐ろしい。

どんなに頑張っても仕事が取れるわけありません。

最初に飛び込み営業で廻ったのが、大阪空港の裏。
そこには中小の工場が多数あり、件数をこなせる。
飛行機が真横に見れるので、
いつかこれに乗って、添乗をしてやるんだと自分に言い聞かせてました。

ある日の寒い日、バイクで空港裏の工場へ飛び込み。
全然ダメで、日も暮れ、お金が無かったけど、
自動販売機でホットコーヒー100円贅沢しようかと迷ってました。
どうしても我慢できなく、手を温めようと、
大事な100円を入れ、温かいホットコーヒー!!
と、取り出したのは、ギンギンに冷えたラムネ。

また、そのバイクがよく壊れ、夜中に何時間も1人で押すことも。

頑張っても頑張ってもダメなものはダメでした。
でもその時、自分は向いてないと考えませんでした。
自分は人よりも要領が悪いので、2倍、いや3倍やらないといけない。
バカが世の中を動かすんだと、自分に言い聞かせ、
いつか、あの飛行機に乗ろうと決めてました。

1月25日から始めて4月位に、6月の仕事が取れました!!
初めて自分で取った仕事。3本連続の添乗です。

2件は、大阪空港の裏の工場。
もう一件は、大阪市内の食品会社。
3件とも各40名様位で大型バス利用。

1本目:草津温泉(群馬) 1泊 
バスに乗車するお客さんを見て、嬉しくて涙がでてきました。
宴会場に来るお客さんを見て、また嬉しくて涙がでてきました。

張り切りすぎて、草津から帰るバス車中の8時間、
ずっとビンゴゲームで盛り上げる為、大声を張り上げてました。
お客さんの会社に着いたのが21:00頃。
そこから飲みに行こうと、初めての仕事なので、断れません。
帰宅が深夜。

2本目:川湯温泉(和歌山) 1泊
殆ど寝れないまま、早朝自宅を出発。
またまたバスに乗車するお客さん、嬉しくて涙がでてきました。
すると喉がおかしい。体調が悪い。
張り切りすぎて、大声を出しすぎて、そこから熱がでている。
翌日、さらにひどくなっている。
意識が朦朧。
バスの中で、もう限界。
ここで倒れたら、今まで頑張ってきたのが水の泡。
俺は絶対に倒れない。笑顔。笑顔。

何とか最後まで倒れなく、無事に終わりました。
脂汗が吹き出し、この時の辛さは今でも忘れません。

3本目:湯の山温泉(三重) 日帰り
一日、間があっての添乗。
川湯から帰り、熱がひどく、歩けない状態。
普段はどんなことがあっても病院には行きませんが、
翌日、添乗で何としてでも今日中に直さないといけないので、
市民病院へ。
診断の結果、過労。すぐに入院とのこと。
相当ひどい状態だったみたいです。

そのまま病院の公衆電話で、会社へ連絡。

いつも一日:5,000円の時給最低賃金を大幅に下回る、添乗費用でこき使われているので、
私から、会社に5,000円払うことで、
添乗が極端に少なくなるか、添乗費用が上がると思い、
これはお互いいい関係を築けるかと思いました。

私:思ったよりひどく、すぐに入院して下さいとのことで、入院します。
明日からの添乗お願いします。
(毎週末、会社の仕事の添乗を行っていたので堂々と言いました)

社長:自分のケツはケツは自分で拭け!ガチャン!!

ものの3秒しない内に電話を切られました。

翌日から日帰りの添乗に行き、お客様も喜んで、無事終了しました。

これで吹っ切れました。
どんな状況でも、自分でできる。
自分でどんなことでもしてみせる。

倒れるまで、ずっと休みなくやっていたので、
ここで、月・水・金曜日、お客さんの会社で土木作業のアルバイトを終了。
初年度の本業・旅行業の所得が26万円。+アルバイト代。

2年目以降も、会社からの添乗アルバイトを続けながら、
自分で独立したいと夢を持ってました。

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