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私の職歴

今年、創立15周年と、このブログで書いたところ、
たくさんのお祝いのメッセージをいただきました。

このブログを書いてて、何も反響がないので、
誰も見てくれてないと思っていたのですが、
本当にありがたく、感謝致します。

どういう人間なのかを、このブログを通してご紹介します。

1990年 旅行会社に就職


私は、1990年。22歳の時、観光専門学校を中退した後、
北海道の牧場で働いた後、旅行会社に就職しました。
大阪・吹田にある、社員数6名の旅行会社。
地域密着の旅行会社で、主に地域の旅行(団体旅行)。
海外よりも国内旅行が多く、観光バスで行くのが殆ど。

入社する前の学生の頃は、社会にでたら厳しいと、しきりに言われてました。
また、休みがなくなると聞かされてました。

入社してその週末に300人の市会議員後援会旅行。
社員総出で、私も添乗に。
修学旅行、遠足以来のバスに乗り、殆ど初めてに近い温泉旅館。
宴会なるものを初めて経験し、
添乗に行ったら、会席料理を食べれて、温泉に入れるんだと、
その時は感動しました。
社長と同じバスで同乗し出発。
挨拶前(出発して落ち着いたら、幹事⇒添乗員⇒ガイドの順でご挨拶)
に私は寝てしまいました。
凄い度胸だと、期待の新人と名づけられました。(皮肉?)

その週末は、金・土・日曜日で添乗だったので、
その週は、休みがありません。
その翌週、翌々週も、ずっと添乗を入れられ、
その間、そこの社長に休みはどうなっているのでしょうか。
と聞いたら、仕事が無い時だと、初めての休みは4ヶ月後でした。

週末ずっと添乗に行かされてたので、
今でも、添乗と聞くだけで、何ともいえない嫌な気分になるのは、この頃のトラウマです。

旅行会社といったら、カウンター業務イメージでしたが、
それは大手旅行会社の一部で、実際は営業が基本。
こちらからお客様へお伺いします。

また、旅行といったら、飛行機、鉄道を使うイメージでしたが、
基本は観光バス利用の団体旅行。

週末の添乗以外で平日でも、入れ込みがあります。
バス出発のお見送りです。
そこで、お客さん、バス乗務員と打ち合わせ。
朝は早く、夜遅くまで仕事です。

1年近くがたち、大分仕事も分かってきた頃、
中学時代の同級生の女性が、取引先である、東急観光のロイヤルホテル支店へ。
大阪を代表するホテル内で、大手の旅行会社。
同じ時期の入社。

その同級生といろいろ話している内に、業務知識の差が歴然でした。
東急観光は、週休二日。
こちらは、休みもなく添乗に行き、朝早くから見送り、
営業、見積、手配、集金。帰宅は遅い。
嫌でも地図、旅館・ホテルの平面図、旅行業務の流れが
頭に入り込んでます。

ボーナス時期のある日、その同級生が、
「森本くん、そんな頑張ってたら、すごく貰っているんでしょ?」
と聞かれ、そんなことないと謙遜してました。
ちなみに、どの位もらっているのと聞いたら、
「私なんか全然」と、前置きをした後、
額をきいたら、涙が出てきました。
給料は私のほぼ2倍。ボーナスにいたっては約4倍。

給料は評価です。
頑張れば、能力に応じて上げると、社長と話していたのですが、
ここまで差がでれば、情けなくなって、
ただ人に言われたことをやっていては、
一生ここから這い上がれないと悟りました。

決して儲かってない会社ではありませんでした。
私が休みがない程、仕事がありましたし、
この周辺での団体旅行は、ほぼ取っていました。
社長は、郊外の豪邸に住み、近くにはマンション所有。
クラウンの新型がでる度に乗り換え。

人の仕事ばかりやらされ、添乗ばかり行かされ、
自分のお客さんがいないからなのだと考え、
23歳の時に、社員ではなく、完全歩合制と社長にお願いし、
やることになりました。
Hawaii_1991

1992年 森本商店 完全歩合制へ


森本商店の誕生です。
社員ではなくなるので、電話、ワープロ、車も使えなくなり、
もちろん全ての経費は自分。税務申告等も自分で。
その頃は、完全歩合の前例がなく、粗利の60%を私。会社40%。
今から考えると、とんでもない率です。

お金がなく、車なんて買えないので、中古のバイクを購入。
バイク屋のおやじさんに、しつこくお願いし、28,000円を25,000円に。
それを営業車に。
そのバイク屋さんは、今でも私のお客様です。

名刺を作り、いざ飛び込み営業へ!!

月・水・金曜日、お客さんの会社で土木作業のアルバイト。
夕方、アルバイトが終わり、本業。
火・木曜日は飛び込み営業。
土・日曜日は会社の添乗のアルバイト。日給5,000円。
今から考えると、とんでもなく安い。
その頃は、こんなチャンスをいただいたのでと、感謝して精一杯やってました。

〇ある日の週末添乗アルバイトの例
日帰り添乗:日当5,000円
バス会社の車庫へ04:30。(自宅を03:30出発)
06:30出発~21:30帰着
バス会社着22:30。(帰宅23:30)
18時間労働。時給:278円

人のばかりやってたので、飛び込み営業は初めてです。
誰も教えてくれないので、自分で考えてやってました。

思い出すととんでもない営業です。
バイクで廻っているので、冬は寒く、ジャンパーを脱がないまま、
ヘルメットも脱ぐのが面倒になり、
ヘルメットを被ったまま、大手の会社も行ってました。
物知らずとは恐ろしい。

どんなに頑張っても仕事が取れるわけありません。

最初に飛び込み営業で廻ったのが、大阪空港の裏。
そこには中小の工場が多数あり、件数をこなせる。
飛行機が真横に見れるので、
いつかこれに乗って、添乗をしてやるんだと自分に言い聞かせてました。

ある日の寒い日、バイクで空港裏の工場へ飛び込み。
全然ダメで、日も暮れ、お金が無かったけど、
自動販売機でホットコーヒー100円贅沢しようかと迷ってました。
どうしても我慢できなく、手を温めようと、
大事な100円を入れ、温かいホットコーヒー!!
と、取り出したのは、ギンギンに冷えたラムネ。

また、そのバイクがよく壊れ、夜中に何時間も1人で押すことも。

頑張っても頑張ってもダメなものはダメでした。
でもその時、自分は向いてないと考えませんでした。
自分は人よりも要領が悪いので、2倍、いや3倍やらないといけない。
バカが世の中を動かすんだと、自分に言い聞かせ、
いつか、あの飛行機に乗ろうと決めてました。

1月25日から始めて4月位に、6月の仕事が取れました!!
初めて自分で取った仕事。3本連続の添乗です。

2件は、大阪空港の裏の工場。
もう一件は、大阪市内の食品会社。
3件とも各40名様位で大型バス利用。

1本目:草津温泉(群馬) 1泊 
バスに乗車するお客さんを見て、嬉しくて涙がでてきました。
宴会場に来るお客さんを見て、また嬉しくて涙がでてきました。

張り切りすぎて、草津から帰るバス車中の8時間、
ずっとビンゴゲームで盛り上げる為、大声を張り上げてました。
お客さんの会社に着いたのが21:00頃。
そこから飲みに行こうと、初めての仕事なので、断れません。
帰宅が深夜。

2本目:川湯温泉(和歌山) 1泊
殆ど寝れないまま、早朝自宅を出発。
またまたバスに乗車するお客さん、嬉しくて涙がでてきました。
すると喉がおかしい。体調が悪い。
張り切りすぎて、大声を出しすぎて、そこから熱がでている。
翌日、さらにひどくなっている。
意識が朦朧。
バスの中で、もう限界。
ここで倒れたら、今まで頑張ってきたのが水の泡。
俺は絶対に倒れない。笑顔。笑顔。

何とか最後まで倒れなく、無事に終わりました。
脂汗が吹き出し、この時の辛さは今でも忘れません。

3本目:湯の山温泉(三重) 日帰り
一日、間があっての添乗。
川湯から帰り、熱がひどく、歩けない状態。
普段はどんなことがあっても病院には行きませんが、
翌日、添乗で何としてでも今日中に直さないといけないので、
市民病院へ。
診断の結果、過労。すぐに入院とのこと。
相当ひどい状態だったみたいです。

そのまま病院の公衆電話で、会社へ連絡。

いつも一日:5,000円の時給最低賃金を大幅に下回る、添乗費用でこき使われているので、
私から、会社に5,000円払うことで、
添乗が極端に少なくなるか、添乗費用が上がると思い、
これはお互いいい関係を築けるかと思いました。

私:思ったよりひどく、すぐに入院して下さいとのことで、入院します。
明日からの添乗お願いします。
(毎週末、会社の仕事の添乗を行っていたので堂々と言いました)

社長:自分のケツはケツは自分で拭け!ガチャン!!

ものの3秒しない内に電話を切られました。

翌日から日帰りの添乗に行き、お客様も喜んで、無事終了しました。

これで吹っ切れました。
どんな状況でも、自分でできる。
自分でどんなことでもしてみせる。

倒れるまで、ずっと休みなくやっていたので、
ここで、月・水・金曜日、お客さんの会社で土木作業のアルバイトを終了。
初年度の本業・旅行業の所得が26万円。+アルバイト代。

2年目以降も、会社からの添乗アルバイトを続けながら、
自分で独立したいと夢を持ってました。

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